マタイによる福音書26章26-30節、出エジプト記24章3-8節「赦され新しくなる契約」

26/5/17復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書26章26-30節、出エジプト記24章3-8節

「赦され新しくなる契約」

この最後の晩餐の席に、もし、皆さんが弟子たちの一員として自分がいてと想像したら。そしてパンが渡された後、イエス様が杯をかかげて「これは罪が赦されるために、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とイエス様が言われた時、です。そうだ、私のためだ、私は赦されなければならない、と思うだろうと想像されるでしょうか。

これを書いているのは12弟子の一人マタイですから、マタイの気持ちになって考えても良いでしょう。そのほうが想像しやすいでしょうか。

またそこにはイスカリオテのユダも共にいる。マタイはこの福音書を記しながら、この時のユダの気持ちも考えたのではないかと思います。イエス様が共にいる弟子たちをグルっと一人一人見つめられ見渡され、あるいはユダがすっと目線を逸らしたとすれば尚のこと「!この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるために、多くの人のために流されるわたしの血契約の血である」と。誰一人取りこぼすことのないために、皆!と強調されて、あなたの罪は赦される!そのために注がれるわたしの血だ!飲みなさい。契約だ。あなたのためにわたしは命を注ぎだして、あなたの罪をすべて償う!わたしは主、あなたの神なのだから、と向き合ってくださるのです。

赦されるため?どういうこと?と、あるいはこの瞬間に、私は赦されなければならないという自覚がなかったら、赦されるためと言われても、自分の気持ちがついていかないということもあるでしょう。ユダ以外の弟子たちはどうだったのでしょう。でも彼らや私たちの気持ちよりも、ここではイエス様の気持ちが圧倒的に勝っている。私たちが救いの契約をしてくださいと持ち出したのではない。これは、神様が強く望まれて、この赦しは強く確実だと保証するための契約です。

その契約は既に有効なのですが、いつ絶対必要になる契約か。それが、29節が前提とする極限状況です。「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。つまり今の形では共に居られなくなる。十字架で死なれて、復活させられて天に昇り、先の24章では、地上の全ての人々が「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」。そして始まる、全ての人が裁かれる最後の審判で、赦しの契約が絶対必要となる。

ただし最後の審判が終わったら、本当に裁きは最後。罪が無くなる!代々限りない父の祝福のご支配の宴の席で、イエス様は再び弟子たちと食卓を囲んで、この時を待ちかねちょったと、祝杯を注いで、良かった、本当に良かったと、神我らと共におられる主として皆と宴を楽しまれる。

だからきっと主は最後の晩餐でこれから弟子たちと飲む杯と、父の国の祝杯の幻とをギューッと重ねて、ぶどう酒が入っていく口・喉、また鼻腔で感じる香り味わい全てを、この味は絶対に忘れんと、きっと思われながらギューッとぶどう酒を味わわれて、さあ皆、!これを!罪は、わたしが引き受けて赦されるから!と、杯を弟子たち皆に回された。

確かに最後の審判で人の子は私たち皆を裁かれます。だからあなたの罪を死んで償うために来たあなたの神を受け入れなさい。それがわたしの体を食べることだ。そうしてわたしと一体となる信頼関係に結ばれたあなたがたへの裁きはもう決まっている。わたしは宣言する。あなたの罪は赦された。それが、わたしの死だ、という大いなる覚悟をもって、それだけの保証をもって、皆に「契約の血」を回し飲ませられます。

口約束なんかではない。犠牲を払うのが契約です。前に私も弟の子が学校に入る時、保証人になりました。もし学校に損害を与え支払えない場合、私が支払う責任を共に負うことを保証する契約を、契約書に名前を刻み込んで結びました。

イエス様の赦しの契約は、もし損害を与えたら支払います、ではない。本当は今日にも受けなければならない私たちの罪の報いを、イエス様は、だから!もう人の子として生まれられる時から、敢えて言うなら天の父と共に、わたしが支払います、と同意されて名前をサインされて、彼らの罪は赦されますと保証された名前を引き受けた人の子として来られた。それがマタイの伝えたクリスマスの御言葉で、天使が伝えた名前です「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。…その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神様は我々と共におられるという意味である」(1:21,23)。

イエス。主が救われるというお名前を、その契約書に刻まれた神様が救って下さる。どうやってか。共におられる神様が死なれて罪を償い、赦すことで、裁きから救われる。あなたの罪の報いは、わたしがすべて負い切ったからと。その神様が私たちと共にいて下さるから、安心して信頼してお従いできるのです。そしてやがて「共に新たに」杯が私たち皆にイエス様から渡されて、さあ皆、赦しに、祝福に、限りなく共なる幸いに乾杯と、共に喜んで下さる主を、いま共に礼拝するのです。