26/5/10復活節第六主日朝 南国高知東合同礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章14-25節、出エジプト記12章21-28節
「命を償う良い時が来た」
「まさか私のことでは」。直訳は「私では、ないですよね、主よ」。皆、自信がない。良いことです。自分を信じないのは。直前の8節で、自分は正しいと思って「何故こんな無駄遣いを」と憤慨して、その態度を主に正されたばかりです。この人はわたしに良いことをしてくれたがでと。
前にもペトロが叱られた。わたしの後ろに引き下がれサタン(16:23)。何故なら神様のことを思わず、人のことを思っているからと。私たちはどうでしょう。じゃあ私もサタンのようなこと、するがやないろうかと、ここで弟子たちは、主をつまずかせる愚かさを持っちゅう自分を自覚している。でも、そうなりたくないから!私ではないですよね、主よ!と、主よ!と呼んで、イエス様に向き合うのでしょう。
主は、そんな私たちの主となるためにこそ、真実に人のことを思って、来られた。人が神様のことを思って生きられるために、人々をご自分の死によって赦して救い出す十字架に「引き渡され」に来られました。
「引き渡す」「裏切る」とも訳され繰返される、救いのキーワードです。前頁2節で「二日後は過越祭である。人の子は十字架につけられるために引き渡される」と主は言われました。直後、祭司長たちが「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから祭りの間はやめておこう」と、人を怖れて、主を畏れない。まさに人のことだけ思って策を練るのに、なのに祭りの間に「引き渡される」展開に、一手で変わる。それがユダの任務です。
つまりユダも人のことを思って、自分を思って自分の都合で動きゆうつもりで、主を「引き渡す良い機会」を狙いゆうつもりで!その全てが、ユダも祭司長たちも背負って死なれる十字架の主の御手の内にある。
それが分かるのが「良い機会」と訳された「良い時」です。ほぼ同じ言葉を、主は18節で「わたしの時が近づいた」と敢えて強調されます。大事な時が、とか救いの時が、でなく「わたしの時が」。
これから行われる聖餐式でも毎回!聴く、毎回強調される聖餐制定の言葉で、飲むたびに意識しなさいと主は言われます。「わたしを記念して」「わたしを覚えて、忘れないで」「わたしを」!あなたにとってわたしは誰であるのか。何故わたしが必要なのか。忘れないで。わたしを!と。
ここで主が言われた「わたしの時が近づいた」とは無論、十字架の時。この時のため!神様は人となられ「人の子」となられて死にに来られた。私たちの罪が引き起こす裁きが、なのに私たちの頭上を過越して、主の十字架の上に地獄のように落ちて来て、神様が代わりに死なれて!人が償われる時。それが私たちの主が引き受けられた「わたしの時」です。
それを御言葉は「良い時」だと、意味を二つ重ねながら「良い時」と言います。もし人のことだけ思って良い時と言うなら、それは人が自分の支配を求め、自分の思い通りに人や物事が動くよう願う。その支配が実現する時が良い時だ、敢えて言えば、その時、自分の時が来たと思う。
だからその人間の自分の時を、主は、いや、それはわたしの時だと、罪人の頭上に落ちてくる報いと呪いを十字架で奪い取るように罪を負い、私たちの呪われるべき報いを負うために人となられた人の子が死なれる。真実に、人間のことを思われて「引き渡されて」。それは神様にとって!そして真実にあなたがたにとって良い時だと言われるのです。
人間が自分の支配を来たらせるための都合の良い時を、奪って、その支配ではダメだ。その支配ではあなたは救われない。そのあなたの罪を赦して救う良い支配を、だからわたしが行うから、そのわたしを片時も忘れないようにしてくれと求められる主を、確かに私たちは「主よ」と呼ぶのです。弟子たちのように、人のことを思って神様のことを忘れる自分を自覚しておれば尚のこと、でも忘れたくないから!主よと呼ぶ。
あるいはユダのように「先生」と、意地でも主よと呼びたくないのか。呼べる自分ではないと恥じるからか。あるいは、人の子を引き渡す者は、生まれんかったほうが良かったと、ヨブ記で自分の生まれた日をヨブが呪った旧約の伝統的表現を用いて、主がユダの苦しみを引き受けながら言われた、その時の主のお顔を見れなかったのか。ユダを思う主の痛み、激しい苦しみを思わずに、自分のことだけ思って「私ではないですよね、先生」と、あるいは私たちも本当に神様のお気持ちが分からなくて神様のことを思えない、赦される他に救われ得ない人間だからこそ、神様は、その完全な報い、完全な償いへと、引き渡されて死なれるのです。
面と向かって「主よ」と呼べんユダに、主は「それはあなたの言ったことだろう」、主ではなく先生と呼ぶあなたは間違っている。何故なら、わたしは主、あなたのために死ぬあなたの神だ。死ぬと言ったら死ぬ。背負って呪われて死ぬ。わたしが言ったことは絶対に成る。人間が何と言おうと。わたしが主だ。だから先生とか言うな、撤回しろ、わたしが主、あなたの神だ。それが神の言葉だから「人の子は聖書に書いてある通りに去っていく」。あなたを過ぎ去らせないための、わたしが過越の罪の赦しの主である、と本当に死なれた神様を、だから人は信じるのです。