26/5/3復活節第五主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書26章6-13節、詩編12篇
「いつも十字架を思って」
無駄遣いに思えること。おそらく他の人がやりゆうがを見て、何でと思うのでしょうけど、存外あるがやないでしょうか。あるいは私たちがこうして十字架の神様を礼拝しに来ることも、そう思われやすいのかもしれません。献金も、感謝と献身のしるしに献金を献げますと言われて、何で感謝?と献身が自分の事としてイメージできざったら、弟子たちが思ったように「何故こんな無駄遣いをするのか」と思うかもしれません。直訳は「何のため」「何に向かっての、この損失なのか」。意味、目的が分からない。十字架の神様を礼拝して、何か良い報いがあるのか?と。
敢えてこう言うのは、単にご利益信仰を批判しているのではなくて、特にこの前の25章で、私たちがどんな生き方をしたかには、神様からの報いがあること、必ず結果があることを、主が強調なさったからです。
その意味で弟子たちが問うた「何に向かっての、この損失なのか」は、半分、的を射ているとも言えるでしょう。何に向かって?何を求めて?この損失にはどんな報い・結果が、神様から与えられると思ったのかと。ただ、何も考えずやったのだろうと非難したのでないなら、ですが。
前に紹介したかもしれませんが、マザーテレサに質問した人が「何故、十分にはない薬や人手を、それをあげたら良くなる人にではなく、手を差し伸べても助からない瀕死の人たちに与えるのですか」と尋ねると、マザーは割に厳しいお顔で「私はそうは考えない。私のところに連れてこられる人たちは…生きている間中『邪魔だ、汚い、臭い』と言われて、居場所もなく阻害された人たち。あげくの果てに病気になり、臨終が近くなっても誰も診てくれません。だから私たちは連れて帰るのです。…今まで飲んだこともない薬を与えられ、今まで一度も感じたことのない優しさで包まれ…やがて死にゆく時が訪れると、ほとんどの人が『ありがとう』と言って逝くのです。中には笑顔さえ浮かべて逝く人もいるのですよ」と答えた。
先の25章で主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われました。マザーは、このイエス様の御言葉を聴いて、死を待つ人たちに、主に向き合って、お仕えしてこられました。その25章から続く今日の御言葉で弟子たちが「何に向かっての、この損失なのか」と問うた、その具体的な答えが、ここにある。この死にゆく私たちのために、その私たちの死と罪と呪いをすべて私たちの代表となられて背負い償って死にに来られた十字架の神様に向かっての!世界中の全ての人の救い主キリストに向かっての!この損失なのです。いえ、私はこれを損失だとは考えていません、私の主がそうは思っておられないことを、信頼しているからです。十字架の救い主のお気持ちを、そのご支配を、はいと信頼しているからですと、私たちも答えて良い。共に応えたい。十字架の神様に向かって、です。
弟子たちに責められ、憤慨さえされたこの女性の、信仰を思います。どんなイエス様だと信頼していたのか。私たちは、どんなイエス様だと信じているのか。それが言葉や態度に出るから、主は弟子たちに「何故、この人を困らせるのか」直訳のニュアンスだと「重荷を負わせ殴るのか」。よく分かるのではないかと思います。でも本当に分かって欲しいのは、そう弟子たちに言われたイエス様のお気持ちです。この女性が、当時のお葬儀では遺体に香油を塗る、それをイエス様に今して差し上げないと、十字架で殺されたら埋葬もされないかもと考えていたかは分かりません。でもこの主への奉仕を、損失とは考えてなかったのは確かだと思います。前頁で主が「人の子は十字架につけられるために引き渡される」と言われたのを聴いておったのかも分かりませんが、御言葉の流れでは、そう、これはわたしの葬りに向かっての奉仕なのだと主は言って下さる。主の十字架の救いのご支配の中に包み込んで下さると言って良い。私たちもそうでしょう。全部わかって信じたのでしょうか。主に包まれたのではなかったのか。そしてイエス様ありがとうございますと洗礼を受けて、主に身をお献げして、感謝と献身の礼拝を主にお捧げしている。礼拝は、神様の恵みによる救いのしるしだから。十字架の神様は、私のために命を献げて惜しくないと死にに来て下さった神様だから。あなたの信仰も、そうだろうと今も主がご支配して下さっているのです。私たちの信仰に、御国を、恵みのご支配を来たらせて下さる、そのイエス様を信頼する。そうだろうと、この後もっと分からず屋になっていく弟子たちを責めることもなさらないで、きっとあなたたちも、この姉妹の、わたしへの愛の奉仕が分かる。この愛の奉仕は教会で福音と一緒に説教されるようになるからとさえ言われる。この大きな恵みのキリストを、その十字架の救いのお気持ちを、教会は世界中に宣べ伝えるのだと言われるのです。
まるで人生を損するようにしてキリストを礼拝し何の良い報いがあるのか。何のではなく、誰の、です。私たちの命を罪と死から救い出して愛される神様に包まれ共に生きられる幸い、損しない報いがあるのです。