26/4/26復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書25章41節-26章5節、創世記3章17-21節
「神代に聴いて生きる命」
「人の子は十字架につけられるために引き渡される」。それが天の父のご支配だからです。父が!人となられた永遠の御子を引き渡されます。全ての人の代表「人の子」の命で、全ての罪が償われるために。
この罪の裁きをガラテヤ書では「呪い」と呼ぶ。「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです」(3:13)。
先の創世記では、やがて人がそこに返る「土」が呪われました。呪い。命の祝福を得るため働いて耕し世話しても報われず、期待が破れる呪い。人だけでなく、神様もです。それが分かれば呪いの悲しみが分かります。人は報われないと呪いだと思う、その根源的理由が、ここに遡ります。
そしてやがて全ての人が、神様から受けた!息を返して、土に返る。同じ土で創造された世界も滅し、人も滅す。その呪いを十字架で赦しと祝福にひっくり返しに来られた人の子が、復活の救いをくださるのです。ここからその十字架と復活の御言葉へと、一気に加速すればこそ!その呪いを他人事にせんための御言葉が先ず語られます。自分の事でなく、他人事にしやすいからでしょう、呪いも、そして十字架の裁きも。
また更に誤解されやすいキーワードが「永遠の」です。「その時代の」「その特殊な期間の」が直訳で、時間とは別の概念/イメージです。今年小学校入学の子は令和生まれと聞いて、令和!と思う印象が時間感覚と別なのと同じです。江戸時代と明治時代の違いのように、時代は、誰の支配にあるかで区別されます。つまり「永遠の」は、人間が間に入れん「神様の直接のご支配の時代の」という意味です。それを神代と、百人一首「ちはやふる」の一節を説教題で借りました。神武天皇以前の神々の時代という意味で、これも時間的長さではありません。
天地創造の神様に、そもそも時間も場所もない。だから分かりやすく譬えて、そのご支配の広さを国、長さを代々とか時代と言う。大正時代は短いと思う時の印象や、短命政権という印象も同様です。でも人の子の政権は短命でない。決して終わらない主のご支配が聖書の永遠です。
「永遠の命」は主が直接ご支配なさる命。ご支配を抜いた時間で誤解した永遠は、聖書の永遠とは別物です。「永遠の火」も主がご支配なさる焼却/滅却を抜いた時間のみ考えたら無残な印象だけ作られるでしょう。
ただイエス様は24章から、世の終わりに対する人間的誤解を取り除き、また健全な畏れを忘れない、その両方を連続して強調されました。主を畏れることが知ることの始まり(箴言1:7)ですから、油断し畏れを無くすなら、これまで譬えに繰返し出た愚かな誤解になってしまいます。
そしてそうならんよう!主は「離れ去れ」と、それまで主のお気持ちから離れ去り、主との関係から距離を置いた生き方が示す関係の遠さを、この関係の距離が問題でね、その結果はあるきねと先に注意するのです。
「この最も小さい者の一人にしなかったのは」、その人を避けて離れて距離を置いていたからではないか。ルカ福音書の良いサマリア人の譬えでも、外見は正しい祭司たちが、傷ついた人を避けて離れて通り過ぎる。でも正しくないと思われていたサマリア人は「その人を見て憐れに思い、近寄って」世話をした。主は「あなたはどの人がこの人の隣人になったと思うか?行ってあなたも同じようにしなさい」そうすれば「永遠の命を受け継ぐ」と言われました(ルカ10:25ff)。今日の御言葉で言えば、その人はわたしだから、どうか離れ去らないで、その結果はあるからと。
言い換えれば隣人を愛するのは、最も小さい人たちの一人から離れ去らないで主にお仕えするのは何故なのか。交通ルールのように、それに違反したら罰があるからか。もしルールが自分の生きる相手なら、人が相手ではなくなります。守っても、ルールは感謝しません。当然やかと。でも横断歩道前に人がいて止まったら、特に子供はありがとうと言う。あるいはスピード違反車の事故で怖い経験をした人は、スピードを守るだけで、その人に感謝する。その相手に、人に!誰として向き合うか。この人はあなたと同じ大切な人ではないのか、大切でないから離れ去るなら、あなたもそうなると言われるのです。
この人は、わたしだから。これがわたしだから、と言われる神様が、だから「人の子」となられて全ての呪いを身に受けて、我が神、我が神、何故わたしを捨てられるのかと叫び死なれたのは、この離れ去られ方を、誰にもしてほしくないから!だから永遠の御子は、言わば、その永遠の広さの手のひらに載せられるだけ多くの永遠分の人を載せて、あなたは、赦しの側に移りなさい、わたしが代わりに、あなたの有罪の席に移るきと、十字架で永遠の重さの有罪の死の裁きを受けて死なれた。その神様にとって、無価値で存在が無に等しいような人は唯の一人もおられない。どんなに小さいと思われる人も、あなたの命に関係あるき、あなたの神であるわたしが命を捨てて救い、赦し愛して支配する命に関係あるきと。神様が共におられてご支配される命に生きよと主は呼ばわるのです。