マタイによる福音書25章31-40節、ダニエル書7章13-14節「この人はわたしだから」

26/4/19復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書25章31-40節、ダニエル書7章13-14節

「この人はわたしだから」

そうおっしゃったイエス様のお気持ちは、きっとお分かりになるのではないでしょうか。これらの最も小さい者たちの一人にしてくれたのは、わたしにしてくれのだ。その人たちは、わたしだ。決して他人ではない。他人事なんかにはなり得ない。その人、わたしやきと。

この神様のお気持ちを、考えて欲しいのです。そしたら神様が分かる。キリストの救いも分かる。そしてこの神様に息を与えられて生きている私たちが何者であるのかも!その生き方も、きっと分かる。

このキリストのお気持ちを知る上で、御言葉が集中するキーワードは「人の子」です。場面はいわゆる最後の審判。この後、裁きは無いから。罪が無くなるから。悪も憎しみも怒りも反抗も死にたいことも無い世界。すごい世界が来る。逆に私たち人間は、どんな世界に生きて来たのか。今どんな世界にしてしまっているか。どんな世界に神様はクリスマスの救いの光をくださったのか。それが馬小屋に人として生まれられた神様、「人の子」です。全ての人の代表です。人のことを何も知らん神が人の気持ちも知らんと裁くのではありません。ありえんでしょ、そんなの。

それが、全ての人の罪と裁きを背負い苦しまれ、十字架で償い切って、神様が代表で裁かれ死ぬことで罪を赦される「人の子」の「栄光」です。その、既に罪を負い切られた全ての人が、この人の子の前に集結します。天使もいて全人類がいて、私、神様の前におると畏れつつ分かる状態。そこで羊飼いが放牧していた羊と山羊を、畜舎に入る前で分けるように人々を分けられて、人の子が言われる。まとめて言えば、こうでしょう。あなたは、わたしに対して!こう生きたね。だからだと。

急所は「わたしに」です。原文では全部に「わたしに」「わたしを」と強調するので、言われた側は、あなたに?いつ私の前に神様おったが?と問い返すほど、全く自覚がありません。

ただ、目の前の神様、人の子に向き合って、あの時という自覚はなくても、主が言われる「最も小さな者の一人に」なら与えたという自覚は、あったのではないかと思います。皆さんも、ないでしょうか。

その人の苦しみを、他人事に思えなくて。自分のことのように苦しくなって。それで自分を分かち合った。そんな自覚が、ないでしょうか。正しい事だからという判断より先に、他人事に思えないから。苦しみを、まるで家族のように共感して、他人事でない苦しみ、貧しさ、必要を、心で共有して、でもそれで終わらないで、わずかでも自分の持てる時間、力、富を、一緒に分かち合ったこと、あるんじゃないでしょうか。

天地を創造された時間を超えた神様、空間をもお造りになられた神様、何もかも超越してその大きさが分からないほど大きな神様が、死ぬべき人となられたのも、私たち、自分を償えない小さな人の救いのためです。あなたは他人ではない。だからわたしは小さなあなたになった。あなたは違うのか?と、人の償いとなられた神様「人の子」が問われるのです。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」他にあれこれ言われない。それだけ。いや、それほどのことをしてくれたじゃないかと!小さな者の悲しみ苦しみを他人事にできない人の子の心に、大きく残ることをしてくれたあなたは、もう父から祝福されている。そこに天の父のご支配は来ていた。その父のご支配を、だから「受け継ぐ」と主は言われるのです。家族として、家督を受け継ぐように。家族だから受け継ぐ。人の子は、そのために、人が永遠の父の家族となるために、命を与えに来られたからです。

そしてこれが、その父の家族の生き方なのです。これらの最も小さな者たちを「わたしの兄弟姉妹」と言われる、いや、わたしだと言われるイエス様にとって、もう自分自身である家族にしてくれた、その生き方を、自分にしてくれた、自分の事として自覚して覚えているのは、家族の当然の義しさだとも言えると思います。そうした、誰かに優しくしてもらって絶対に忘れないこと。皆さんも、あるんじゃないかと思います。

私は自分が本当に恩知らずであることを自覚していますが、それでも、私が牧師になる直前に鬱で毎日死ぬことだけ考えていた時に、当時まだ婚約直前で引き返すこともできた妻に、捨てられなかったことはずっと覚えています。当然だと周りに叱られそうですが、だから本当に家族の義しさという神様の救いの根源的土台を、イエス様のお気持ちを、理屈でなく思うのです。特に鬱だった季節や今も苦しい時、頭でというより心で、この御言葉が示すイエス様を思います。イメージで言うと、妻がフワッとイエス様と重なるように、その優しさと痛み悲しみ苦しみが、一つに溶け合うように私を包んで、この中で私は救われていると思う。

イエス様も私を、自分で頑張ってやりと自己責任にして捨てなかった。離れないで突き飛ばさないで共に苦しんで受け入れて共にいてくれて、そのイエス様が心を突かれるようにして大事にされている、家族として受け継ぐ救いと愛、正義と恵みの信頼関係を、だから共に生きるのです。