イザヤ書40章1-11節「永遠の御言葉に立って」

26/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

イザヤ書40章1-11節

「永遠の御言葉に立って」

見よ、見よ、見よと、三位一体の祝福みたいで、めでたいですが(笑)、その後に、主が私たちの良き羊飼いでいてくださる、と与えられている約束に心から慰められます。

大晦日にこの説教を準備しながら、別の御用で教会のホームページを見たら、トップに藍ちゃんが、まさに羊飼いでいて下さる主の御言葉を載せていました。もう本当に主は私たちを導いて下さりゆう、すごいと、安心して、主の導きについていこうと、重ねて慰められました。

遡るようですが、歳の最後の28日の礼拝では、20年ほど前に教会学校に来ていた子が、もう30歳なので、方がと言わな失礼かもしれませんが、それも慇懃無礼かと思うほど同じ笑顔で、同じ御言葉を聴く姿勢で礼拝に主席してくれて、もう本当にクリスマスプレゼントやと感謝しました。県外で仕事をしゆうけど、いつも教会のホームページを見て毎週の説教も読んでいると聴いて、また慰められました。毎週、説教を載せていて良かったと思いました。でもそれより、ずっと主が彼を導いて下さっていたことを覚えて、そしてこれからも主が彼を導かれることはやめられないのだと信頼し、だから、その信頼できる御言葉を皆に伝えるのだと。彼を通して、主から慰めを与えられました。

見よ、という御言葉を先に強調しましたが、何を見るか。誰を見るか。また、どう見るかで、逆に励ましを失うこともあると思います。礼拝も、もし人数だけを見るなら、少なくなったなあと確かに思う。あるいは、この御言葉の預言者のように、いっとき教会が盛り上がって喜んだり、励まされました言うて信仰の花が咲いたように見えても、しぼむやかと思ってしまったら。苦労して御言葉を伝えても意味がないがやないかと、そう思う誘惑は確かにあると思います。

それはまた、聴く側としても知っている誘惑かもしれません。6節で「呼びかけよ」と預言者に向かって言う、天からの声に、けんど「何と呼びかけたらよいのですか」または「どういう風に呼びかけたらえいがですか」と預言者は問う。でもそれは単に、どう伝えたら心に届くろうと悩んでいるのではない。聴き手側で言えば、もっと心に届く話をして欲しいという悩みではないのです。この御言葉が向き合う問題は、届く話を聴いても、結局は何ちゃあ変わらんがやないか、いっとき励ましを得ても、また同じ生き方や同じ問題や言い合いに戻るだけじゃないがかと思ったら、虚しくなる。どうせと思ったら、主を礼拝すること自体が空虚に感じて、礼拝する気にも信じる気にもならんなるという問題を、きっと一度は誰もが感じる誘惑を、隠さず伝えるのです。

でもその問題に、裁きの態度で向き合うのではない。先に言いました、羊飼いが、小さい弱い小羊を優しく、その胸に抱いて、わたしが導くき、大丈夫でと慰めてくれる。それがこの御言葉の、慰めるという態度です。

その態度で8節に戻りますが、この8節は、その前の6節7節で、何をしたち結局は意味がないと思う虚しさに対して、天の声が、そうだ、と。人間は草のように花のように枯れていく。しぼんでいく。人間だけなら虚しいと事実を肯定するのです。教会も、うんと努力して、あるいは若々しく成長して、努力が報われて嬉しい、主を賛美しようと盛り上がった時期があっても、ずっとは続かない。努力したのに報われんことを見たら、虚しくなる。その通りだ。だからこそ「見よ」と励ますのです。何を見るのか。努力や期待が裏切られる人間の働きの報いを見るのではない。あるいは御言葉を語って、悪くさえなっているように見えても、なのに御言葉を伝えなさい、時が良くても悪くても、あきらめず伝えよ、神様の御言葉はとこしえに立つから!と、何で!そう言えるのか?何で、そう信じて良いのかを、先に言いました「見よ」!の理由によって慰め励ますのです。

何故、神様の御言葉が、虚しく響くだけに実際に見える人間の現実の中で、いや倒れん!とこしえに立つ!と断言するのか。口だけじゃないからです。上から、信じろ、御言葉だからという律法主義と同じ態度や同じ理由ではないのです。何故!御言葉を信じて良いのか。その御言葉を語られた主なる神様が、本当に死なれるほど努力なさっているから!その神様のお働きをこそ、見よ!と。今すぐでなくても、待ち望んだら必ず見えるき、見張りが朝を待つように見よ。来られゆうき、道は一つしかないき、赦しの道を来られると約束された道を来られゆうき。もし、見えん神様をどうやって見るがと思うなら、主が命がけで働かれたその実りを見よと。その10節の直訳はこうです「見よ、主の報いは主と共に。主の働きの報酬は主の顔の前に」。教会学校に導かれた子供たち、今なお御言葉を求めている彼も、私たちも、主への主の働きへの報酬なのです。用いにくい私たちなのに用いられる主の努力の報酬を、もちろん主は、待ち望んで見ておられます。その主への報いを、主よ、私たちも見たいですと、私たちの羊飼いの誠実な導きのもと、信頼して共に歩むのです。