25/10/26主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書21章28-32節、エゼキエル書18章21-32節
「信頼関係はやり直せる」
この御言葉を、私が説教準備のため最初に読んだ時、俺、弟のほうや、イエス様、ごめんなさいと思いました。ひょっと皆さんの中にも同様に御言葉に射抜かれた方がおられるかもしれません。いかん、何とかせないかん、このままではいかんと思う。それがイエス様の、この御言葉の意図でもあるし、また、もしそう思われた方がおられたなら、そこに「父の望み通り」のことが既に起こっている、父の望みが行われ始めていると「信じて」良いのです。
そう、信じて良い。でも何を信じるのか。この世が信じさせるように、俺は素直な心を持っちゅうねゃ(笑)と自分を信じるのではありません。この御言葉で言えば、洗礼者ヨハネが示した「義の道」がある。正義、神様との愛と信頼関係に一緒に生きるという、信頼関係の正義の道に、主が、さあ、この道を一緒に歩もうと、心に働きかけて下さっている。だからこの御言葉を聴いて、いかんと私は思いゆうがやと、神様の救いの働きを信頼して良いのです。それがブドウ園での「働き」でもある。そして、それこそが、主がこの譬えを説き明かして繰返し強調された、「信じる」「信頼する」という、この御言葉の急所なのです。
何で主がこの譬えをなさったかというと、前回の25節で「なぜヨハネを信じなかったのか」とイエス様から言われるろうき、わからん言うて答えちょこうと、祭司長たちが本心を隠したからです。
でも本心がやっぱり大事なのです。無論、開き直れという意味でなく、この世の、自分に素直になれという本心信仰でもない。隠す本心に罪の原因があるからです。洗礼者ヨハネが、何故「悔い改めよ」と言ったか。人間が、自分が正しいと執着する、その私の正義では、けんどやっぱりいかん、神様との信頼関係の義しさのほうが義しいです、ごめんなさいと考え直して、神様との関係をやり直しなさい、やり直せるきと言って、やり直しの洗礼を授けた。それが「悔い改め」だからです。その自分に固執していた正しさが、本心、イエス様が言うて来られた「悪い心」(12:34)ですから、その自分自分の悪い心、自分は正しい!と信頼関係を汚す本心を、隠したり嘘ついたりせずに、神様の前に、ごめんなさいと悔い改めよう。本当は分かっちゅうろうと。自分の本心を見つめ直すきっかけとして、主はこの譬えを聴かせて下さいました。
だから、と言うか、この譬えの父親は天の父ですから、天の父の御心を行ったがは、どっち?と、うんと分かりやすい問いをなさる。直訳はもっとすごくて「お父さん、承知しました」は「主よ、私が!」。けんど、口だけ。口だけの私が!本当に私みたいと苦しくなります。この譬えの弟も苦しくなるんでしょうか。でも逆に兄が、これも直訳は「先の」者が、後で苦しくなって「考え直した」。これも直訳は「後悔した」「心配し直した」。頭でと言うより、心で気になって心配になって、後悔したと言われる言葉を敢えて用いられるのです。私たちも自分の心の素直さを問うとしたら、やはりここだと思うのです。私たち、何を後悔するのか。おそらく自分のやったことを後悔するのですけど、そこで気になって、心配になるのが、相手との信頼関係で、相手が自分をどう思っているか、それが自分のこれからに、どう関わってくるか、相手との関係のことで、気になって気になって、どうしようと後悔するなら!そしてその相手が神様なら!主は、大丈夫で、やり直せるき、やり直したいと、神様こそ、あなたと一緒にやり直したい、人生をわたしとやり直して欲しい、やり直そう!と望んじゅうきと保証して、この御言葉を語られるのです。
当時、軽蔑されていた徴税人や体を売っていた人たちが洗礼者ヨハネの教えた、やり直しの神様の救いのご支配「神の国」を信頼して洗礼を受けに来たのも、やはり自分が汚いと感じて、後悔しておったからだと思います。後悔せんはずがないと、私たちも、自分の汚い過去あるいは今も人に隠している汚さを見たら、そうでねえ、後悔せんはずがない、やり直したいちや、清くなりたいちやと、きっと分かると思うのです。
イエス様は、その同じことを祭司長たちにも、どんな人にも、頭より心で、あるいは苦しみ恥じる気持ちから、分かってほしくて、この話を聴かせてくれました。その恥じる心こそ、素直な本心じゃないのかと。そしてその気持ちにこそ、あなたの天の父は、父と子の義しい愛と赦しの正義によって向き合ってくれて、受け止めてくれるからと、私たちの汚れも罪も何もかも背負って償って後ろに棄てる決意で、神の子は人となり、私たちの代表として死にに来て下さいました。神様が死なな償われん汚れ、気になって後悔せんはずがない、百万回以上のごめんなさいでも、どうにもならん罪と恥を、でも神様は、わたしが隠すきと十字架で背負った私たちの罪を全て後ろに隠して背負い切って、もうこの罪は、わたしは見んき、さあ一緒にやり直す神の国で、父の子とされる家族の信頼の義しさで、生き直そうと救って下さる。それが父の御心ですから、信頼して良い。その信頼関係の義の道を、家族一緒に歩んで行くのです。