マタイによる福音書21章18-22節、詩編46篇「十字架の前に道は開く」

25/10/5主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書21章18-22節、詩編46篇

「十字架の前に道は開く」

「求めるものは何でも」と言われて、なら、いちじくが枯れるように祈る人が、もし!おったとして、その人は何を信じて求めるのでしょう。自分もできるという信仰の力とか信じる自分の力とかでしょうか。聖書は言わんでも分かることは省略することが多々あって、主の御心を知る愛の関係を求めてないと、誤解しやすいということも多々あります。

「信じて祈る」のは、私たちの罪を償い赦すため、愛する御子を犠牲にさえおできになる父なる神様を(19:26)、はいと信頼して祈るのです。祈りが盗まれる(13節)私たちを罪の支配から救い出し、父の憐れみのご支配に生きるよう求められる父を信頼し祈る。御国を来たらせたまえ。私の求めでなく、あなたの求めが成りますようにと「信頼して祈る」。

主はこの数日後にも、その祈りを、ご自分を人の罪を償う犠牲として私たちに与えられた父に、ご自分を委ねる信頼で祈られます。あなたの求めが成りますようにと(26:42)。私たちが今ここで主を礼拝し、我らの父の御名をあがめているのは、全部その愛の苦しみのおかげです。

この救いの確かさの中で「ハッキリ言っておく」と、主は誰の言葉を信頼し何を求めればよいのかを「弟子たち」に教えられます。それがこの御言葉です。

その大事な前置きとして!いちじくの木を、主が!枯らしてしまう。何か感情的に受け入れにくい、それで誤解して、こんな神様は何か嫌と感じてしまう行為を、じゃあ何故主は敢えて、なさったのか

ここが本当に信頼の急所で、人は世界を創られた神様が私たちの悪を裁かれる神様だと、特に自分のこととして、私が裁かれるということを、受け入れたくないから!でも裁かれるから、敢えて強烈な形で示された。自分で何を信じようと誤解しようと、既に7章で主が「良い実を結ばない木は皆切り倒され火に投げ込まれる」と言われたように、悪い実をさえ結べなくなる、枯れる時、裁きの時を、人は必ず迎えるからです。

だから!その裁きを身代わりに引き受け、代わりに父から見捨てられ呪われに来て下さったキリストを信頼して欲しくて教えるのです。既に信頼した弟子たちは、このために来られた主と共に!父に信頼し、人々の救いのための自分の十字架を負い、人から受け入れられず誤解される、罪が完全に裁かれる救いを、疑わず信じてほしいと求められるのです。

「この山に向かい」と言われた御言葉の続きの直訳は「持ち上げられ、海に投げ込まれよ、と言っても、それは成されるだろう」。つまり、山が自分で動くのではない。先に、悪い実を結ぶ木が火に「投げ込まれる」と、神様に裁かれることを言ったように。おそらくこの山はエルサレムです。右下の御言葉で、神様への礼拝が強盗に盗まれている聖なる山は、やがて確かに裁かれると、主は後でもっと詳しく言われます(23:37ff)。

後に続く三つの話も強盗の話です。御言葉に現わされた神様の主権を強奪し、どんな信仰を持つかは自分で決める。自分がその権威を持っていると、御言葉に謙らず、でも自分は決まりを守っていると、人を裁く。その自分信仰が、父の憐れみと関係の正義を貫かれるイエス様を嫌って、神様を裁いて殺すのだと、御言葉は進んで行くのです。

でも自分は裁かれないと信じている。でもその信仰の故に自分が悪い実を結んでいて、主に裁かれる。先の信仰告白の言葉で言えば、主から、あなたは、わたしと愛の信頼関係で結ばれて生きる「義の実を」結んでない。わたしはあなたを知らない。「信頼関係を持って」ないじゃないか。ならわたしから離れていく結果を刈り取る以外あるかと(7:23)。それが、いのちである神様から離れて枯れる裁きです。それをマルコ福音書では「呪われた」と言います。いのちである神様と関係が断たれ、離されて、見捨てられる。それが聖書の呪いです。呪いは積極的な何かでなく、愛と信頼関係に共に生きる祝福を拒まれ、祝福の外に出される裁きの状態です。でもその言葉を敢えてマタイが言わないのは!それをイエス様は、代わりに引き受け飲み干して見捨てられに来られたから。呪いは十字架で成就したから。その裁きにこそ信頼しなさいと強調するからでしょう。いちじくの木以上に、いのちを断たれ、人間の代わりに呪われた神様を、信頼してほしいと、主との信頼関係を強調するからでしょう。

ただ、いちじくの木が、自分は枯らされるかもと思ってなかったように、イエス様が嫌だった人々も、あるいは私たちもまた、本当に自分が裁かれるとは思ってない日常を送っている。

だからでしょう。人が皆、神様に裁かれる現実が、自分の罪の現実が、本当に分からない人々に、分かれやと裁いて言うのではなく、十字架のキリストに信頼を持った弟子たちに、彼らのために疑わず祈れと言われるのです。この山が海に投げ捨てられるより、もっと確かに神様が彼らのために棄てられたから。自分自分の呪いの中で、何で私がと叫びたい時にも、その呪いを飲み干した、わたしが共にいるからと、主が支えて下さる。父の求めが成る十字架の勝利を共に信じようと導かれるのです。