マタイによる福音書19章1-12節、創世記2章18-24節「誰が始めた結婚なのか」

25/7/27主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書19章1-12節、創世記2章18-24節

「誰が始めた結婚なのか」

「何か理由があれば」直訳は「あらゆる理由で」理由があれば合法か、と主を試す。確かに人間は、何にでも理由を見つけるものです。

「理由」法廷での訴え、この理由でと訴える訴訟とも訳し得る今日の鍵の言葉です。離婚訴訟で通用する理由は、しかし人間の理由か、神様の理由か。天の法廷で通るのは、どっちか。その神様の理由とは何かと、ここでも主は「天の国」「神様のご支配」を、私たちに教えられます。

実際に試されているのは、いつでも人間の理由で、その悪から私たちを救う神様の理由を、主は「初めから」と二回4節また8節で繰返し強調されます。私は何のため生まれたのかと人が理由を求めるように、夫婦が生まれたのには神様の理由がある。その初めからの理由に帰りなさい、「立ち帰れ、天の国は近づいたから」(4:17)、そこに救いはあるからと。

けんどモーセは!と抵抗され、8節で主は再び繰返されます「初めからそうだったわけではない」直訳は「初めからこのように起こったのではない」。これも創世記の言葉です。「光あれ。こうして光があった。」光よ、「起これ」「起きた」という言葉です。光が起こったのは何故か。結婚が起こったのは何故か。神様が「あれ」と求められたから。人間の理由を超えた、神様の理由によって「二人は一体となる」!

それが人間の理由を退けられる神様の、しかし人間に「起きる」理由です。「一体となる」直訳は「一体の中へと存在することになる」。

6節「だから」二人はもはや別々ではない。一体だから。「従って」!結論です。「神様が結び合わせて」同じくびきを負うために一緒に結んで、同じくびきで結ばれた、神様の特別な関係を、人間が離してはならない。これが神様の判決理由、神様の理由だと主は言われます。

更に強調すれば「一体」の直訳は「一つの肉」。体より、柔らかな肉感のある言葉です。エゼキエル書で「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(36:26)と、頑なでない触感とも言えます。ヨハネが手紙一で「初めからあったもの、私たちが…手で触れたものを伝えます。すなわち命の言について」(1:1)と、人と同じ肉を取られた神様を伝えようとした時も、そこに感じるのは御子との関係の柔らかさ、間柄の柔らかさです。初めから神様が求められた柔らか関係に、なのに人間は、でも、と心が抵抗し自分のことだけ考える頑なさに陥りやすい。

それで、モーセは離縁状を渡いて離縁せえと命じちゅうやかと、人間の人間による人間のための理由で律法を誤解しても、主は8節で、それは人間の頑固さ故に「許した」のだと言われます。直訳は「向きを変えた」承認ではなく、譲歩・許容・容認したのだ。繰返すが、創造の初めから、そうなれと起こされ起きたのではない。「言っておくが、不法な結婚でもないのに」と、ただ一つのみ関係が断たれる神様の理由を示されます。

「不法な結婚」。直訳は「不品行」性的不道徳ですが、新共同訳を使うカトリック教会が離婚を認めないことに配慮し、こう訳されます。また左頁上2行目の「恵まれた」という訳も司祭や修道女の独身制度の説明に用いられてきた神学用語なので、少し説明します。直訳は「与えられた」。結婚しないことは、神様から「与えられた」者にのみ与えられていると。更に「結婚できない」「結婚しない」の直訳は「宦官」。「母の胎から生まれた宦官、また人によって宦官とされた宦官」そして「天の国のために自分を宦官にした宦官も存在する」と、神様のご支配にお仕えするため結婚しないことを選ぶ比喩表現として、こう言われます。つまり、結婚するしないは、自分も選ぶけど、そのように神様に選ばれたという理由があるからだと言われます。離婚も非婚も人間の理由だけ考えたら歪む。天の父のご支配に、はいと仕えるのでなかったら、結婚でも何でも全部歪んでしまう。弟子たちの、そんながやったら「結婚せんほうがまし」という理由は本当に歪んでいると、きっとお分かりになると思います。

10節の直訳も「もしこれが人とその妻の理由なら」つまり人間の理由でなく、ここで主が教えられた理由が、神様の法廷での神様の判決理由なら、じゃあ、もうえいと、人間のこと!だけ考えての言葉が飛び出す。妻のことを考えず、モノ扱いしているのも無論、論外ですが、何より「神様のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)退けサタンと言われた同じことを「弟子たちが」!繰返してしまう。

売り言葉に買い言葉と思ったのか。無論、主は喧嘩を売ってはない。でも自分の思いと違うことを言われたら、喧嘩を売られたと感じて戦闘モードに人はなりやすい。その怒りの理由を、妻のせいだと歪めた夫の悪から命を守るために、モーセが譲歩したというのも想像に難くない。自分は悪くない自分は!の怒りが収まらないという理由で神様に喧嘩を売る悪の報いを、だから、人よ、その報いをわたしが全て買って贖うと、そのために柔らかな肉を取って、裂かれ血を流した、わたしを信頼して、結ばれて共に歩もうと、それが初めからの、我らの父のご支配だからと、御国の福音を繰返し与えて下さる。この選びに救いに共に生きるのです。