25/7/20主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書18章21-35節、詩編25篇
「赦されたから、だから」
ペトロがここで「どれっぱあ赦すんですか?」と主に問うた時、誰かのことを具体的に思っていたんでしょうか。ヨハネむかつく(笑)とか。例えばそれが罪ではなくても、何度も繰返されると、駄洒落とかも(笑)、いつまで?と苦しくなる。忍耐が崩れること、あると思います。
このイエス様の譬えは、そこに心を注ぐのです。王に日本円で6千億円の負債を負う僕も、またその僕に百万円の負債を負う仲間も、ひれ伏し同じ懇願をします。直訳は「私の上に忍耐をお持ちください」。聖書で「愛は忍耐強い」(1コリ13:4)と言われる同じ言葉です。私に忍耐強くあって下さい、愛をもってくださいと訳すことさえできそうですけど、人間の心は、そんな厚かましい、と思うのかもしれません。自分のせいだろう、何で私が苦しむ必要がある、あなたのせいでと思う人間の支配が強ければこそ、イエス様は敢えて二人に、私に忍耐強くあって下さい、愛をもって下さいと、言わせたのではないかと思うのです。これが人間の支配に打ち勝って、「不届き」と訳された「悪」からあなたたちを救う「天の国」の譬えだと、そのために御子を犠牲にされた天の父のご支配「天の国」が告げられる。それがこの譬えです。
ですので先に誤解を招かんように言いますが、ここでは赦す回数や、赦さないかんという行為、行い自体が問題なのではなく、そもそも何で赦すのか?という、赦しを生じさせる「心」に、主は心を注がれます。
最初にペトロが、直訳で「私の兄弟が私に向かって罪を犯し」と言う。「私の兄弟」という関係。血は繋がってなくても、教会の兄弟姉妹は、天の父からは、本当に私の家族なのだ、ということは分かった。ただし頭でなく心で、具体的には喜びや痛み、忍耐をもって分からんと、父が、その関係の具体的な家族関係の在り方を、どれだけ強く思っておられるかが、分からない。分からないから、何回赦せばという数の話になるのではないか。でも本当に分からないなら、60万倍の違いという数の違いで譬えて、個人が絶対に償えない額の負い目を、父は「帳消しにされた」直訳は「手放し」それが「赦す」という言葉です。負い目、借金、罪の償いを、自分の命で返せと手を出し束縛し続けるのでなく、その負い目は赦す、手を放す、わたしが本当に求めているのは、あなたとの信頼の関係だ、あなたはわたしの家族ではないのかと、罪を責めることからは手を放されて、我が子よ、来なさいと求められる。これが父のご支配だ。父が求められる関係は、この関係、憐れみによって!罪が取り扱われる関係。それが天の父が求められ実際に行われる、十字架の赦しの関係だ。そこまで父に憐れまれ、もし数で計算し始めたら破滅するしかない負債を手放され、赦されたのは、あなたもそうだろうと問われるのです。
先に言いました、なぜ赦すのか?という心の問題。そこで、あるいは、赦せないと、私の兄弟が私に向けた罪を、私の心の中の牢屋に束縛し、ガチャリと閉じ込めて、手放さない。でもイエス様が深い憐れみの故に言われるのは、それはあなたが、あなたの手であなた自身を「わたしの天の父」の裁きにガチャリと閉じ込めることにならないだろうか。そうなって欲しくないから、だから!わたしの天の父は、わたしを身代わりに裁いて、あなたたちを赦すと。あなたたちを憐れみ、その罪の一切を、わたしに背負わせ、一滴の憐れみも注がれない完全で聖なる正義の怒り、聖なる裁きを執行なさったのだから、罪はわたしによってのみ解決する。だから罪の裁きは、わたしに任せて、わたしを信頼して、あなたたちは、あなたたち教会に与えてある「天の国の鍵」で(16:19)、あなたの兄弟の罪も、赦せないと苦しむあなた自身も、ガチャリと牢を開け解放して、手放してほしい。わたしが代わりに繋がれて破滅して、永遠の神の死によって、あなたたちを自由にするから、人よ、あなたは父の憐れみの鍵を手に、罪と悪の破滅から自由になってほしい。その罪はわたしのもの、わたしが十字架で、わたしに繋いで、父から裁かれて滅ぼす呪いだから、わたしの手に、その罪は与えなさいと主は言われる。それがこの18章で、父のご支配から迷い出やすく、つまずきやすい小さな羊を憐れんで救いに来られた、永遠の大牧者キリストによる、父のご支配だからです。
改めて、なぜ王は、僕が死んだって償い切れない罪を手放されたのか。「憐れに思って」。直訳は「はらわたがわなないて」。理屈ではない心の痛み、関係の痛みを、お前のせいだとは言わないで、イエス様がそれを何と説かれたかと言うと「その僕の主は」。私たちが十戒を唱和する理由です。「わたしは主、あなたの神」。王が、はらわたを痛められたのは、その僕の主だから。父が御子を犠牲にされたのは、私たちの神様だから。それ以外の誰でもない、私たちの主、私たちの王だから、主は私たちを憐れまずにはおられない。この父のご支配の中で、私たちが「私の兄弟」と呼ぶ父の家族も「心から」赦せる、赦したいです、我らの父よと御名を呼べばよい。悪より救い出したまえ、心に「憐れみ」を与えたまえと、主と共に祈る教会の家族に、天の父の憐れみのご支配は来るからです。