マタイによる福音書18章15-20節、箴言3章21-35節「共に生きる心を汚す罪」

25/7/6主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書18章15-20節、箴言3章21-35節

「共に生きる心を汚す罪」

だから集まって祈ろう、迷い出た兄弟が帰るようにと主は言われます。それが、その兄弟のためにもわたしを遣わされた、天の父の御心だから。わたしもそこに、祈るあなたがたと共にいて一緒に執り成しているから。わたしが共にいるから、わたしと心を一つに、共に求めようと。

イエス様の兄弟でもあるのです。だから冒頭で「兄弟が」と言われる。「兄弟を得たことになる」と、繰返されます。失われることがあってはならない、同じ天の父の家族だから。だから直訳では「あなたの兄弟」「あなたの兄弟」と、繰返されます。

すぐ前の譬えで「迷い出た羊」と言われる小さな兄弟が、具体的には「罪を犯して」迷い出た。あるいは、もう迷い出てしまうと分かったら、「捜しに行かないだろうか」。主は、その時、まずは「行って二人だけのところで忠告しなさい」と、憐れみと配慮を、私たちに求められます。

「忠告」。もとの言葉には「明るみに出す」という意味がありますが、漢字の忠告の忠は、忠実の忠、つまり相手に対する信頼できる真心から、直すべきところを告げるのです。十字架の赦しの光のもとで。その罪はもうイエス様が背負われたからと十字架の裁きの明るみに出す。責めるのではない。態度が全く異なる。共にキリストの御前にひれ伏すのです。

だから、もし忠告が聴き入れられなくても、キリストがその兄弟との関係をあきらめないから、あなたも兄弟との信頼関係をあきらめないで、次の段階に進みなさい、他に一人か二人「一緒に」と言われる。

20節でも「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」と約束されます。一人だと、もし拒まれたら、あきらめたくなる弱さを、ご存じだからだと思います。だから一緒に行きなさい。弱くてもいい。集まって祈って行けばいい。わたしも共にいる。わたしが愛している。その兄弟に、わたしの証人として、わたしの気持ちを伝えて欲しいと。

もし、それでも聴かなければ、教会に。それは、うんと分かりやすく言うと、その兄弟は、教会で、キリストの名によって罪の赦しの洗礼を受けたのです。そのキリストの前に皆で立とう。赦されるから。私たちはキリストのものとされたのだから!と、思い出せるように、です。

もし、それでも聴かないなら、兄弟はキリストの赦しに生きることを拒否することになる。それは何を意味するか。直訳で言うと「異邦人か徴税人と同様に、あなたがたに対して存在させなさい」。言うまでもなく、軽んじるのではありません。主は彼らのため死なれた救い主です。なら、どういう意味か。キリストの赦しのご支配を拒むということは、兄弟と、キリストの間に、線が引かれることになる。兄弟は、キリストの赦しのご支配の外に戸籍を置くということにならないか。既に7章で厳しく主が注意された、終わりの裁きの日、ある人々が、主よ、私はあなたの名によって…と言うけど、その時に主は、わたしはあなたを知らないと言うだろうと言われた。キリストと信頼関係の絆で一つに結ばれて生きる。主の家族となる。それは夫婦が一つとなるという関係が、他の関係との間に全く異なる線引きがされるのと同じだと聖書は教える、その線引きの外に、自分はいると言っているのと同じだということが、その兄弟に分かるよう、関係の線引きをしなさいと言われるのです。

だからでしょう。主は何故「行って」忠告しなさいと、もしだめなら、誰か「一緒に連れて行って」、行ってと何で繰返されるのか。捜しに行く人が少ないからではないかと、私自身のこととして思うのです。私こそキリストの愛の近さから迷い出てしまっているのではないか。線引きはされてなかったとしても、イエス様の目からは、私は遠く離れたところで、自分だけ安全圏の線を足もとに引いて、口だけ正しいことを言って。主が、幸生、迷い出た小さな兄弟はわたしだ、わたしのもとに来なさいと、私こそ招かれているのじゃないか、ごめんなさいイエス様と思う。

その罪の現実、悪から救い出されなければならない小さな教会の現実に向かって、わたしのもとに来なさい、捜し求めなさい、そうすれば!見つかる、見つかるからと励まし慰めて下さっている。そのキリストの御前に、共に集うのです。我らを罪の試みに遭わせず、悪より救い出したまえと、だからこそ主が教えて下さった祈りに、心を一つに合わせて、あきらめず悪に立ち向かい、悪からキリストの光のもとに一緒に逃れて避難しなさいと。誰の罪も責めず、人のせいにせず、赦しを求めて祈る。自分自身、もし赦されなかったら、滅ぶ他ない罪人だから。一緒に主の赦し・憐れみのご支配のもとに逃れる他はない。そしてそこでの生き方は、共にキリストのご支配の中に生きる生き方でしかないのです。他に生きようがない。主の御臨在の中に生きる他はない。

だから責めないで、キリストの光の中で共に歩み直すための祈りも、主は与えて下さいました。我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。キリストの名を呼び、キリストの御前に、本気で集まって祈る教会の祈りを、父は教会に実現されるからです。