マタイによる福音書18章10-14節、詩編23篇「失ってよい人はいない」

25/6/22主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書18章10-14節、詩編23篇

「失ってよい人はいない」

「彼らの(つまり、これら小さな者たちの)天使たちは、天でいつもわたしの父の御顔を仰いでいる」。イエス様がおっしゃったこの御言葉は、今日祈ります教会幼稚園のため、今日ちょうど配布した後援会だよりに、いつも載せている御言葉です。また言いますが(笑)、すごいな神様!と。こういうタイミングで、ほら、あなたがたのことは見ているからと教えてくださる、本当に配慮ある父なのだと御名をあがめます。

父の特別のご配慮のもと、主を信じ、でも迷いやすい小さな者たちのために、父は天使たちを配属しておられます。「天で」と言われますので、え、どこ?と探しても見えんのですが、その天使たち、野球で譬えると、三塁ベースの横でランナーコーチが監督の指示を見ているように、いつ父から指示が出てもいいように、「いつも!」父のお顔を見ている。さあ、道を失った我が子を捜しに行くように、残っている群れ、教会に使いを送りなさいという父のご命令を、待ちゆうのじゃないでしょうか。

何でか。迷いやすい小ささがあるから。教会学校キャンプでも、隣りの公園に行ってえい?と、もう既に走っている子供たちに、必ず大人と一緒に!と、うちの天使、藍ちゃんが走ります(笑)。誰か背後で見守り、ケアーし配慮する。転ばんように、先週で言えば、つまずかないように。つまずいたとしても、手を取り起こして、泣いていたら、父の憐れみのご支配のもとに、もう大丈夫で、さあ帰ろうと、慰めないはずはない。

つまずく、「迷い出る」というのは、その私たちを愛してやまない父の愛と信頼関係のご支配から、親子関係の命から迷い出る。自分は自分を信じて自分の道をと、迷い出る。そういう小ささがある。右頁7節で主が言われた「世が」皆そっち行きゆうでと「つまずかせる」道。父と関係なく考える自分の人生。自分の思いや自分のプライドに生きることで、「世」の幸せを掴めると、小さな羊を迷わせる「不幸」な道。だから、そっちは行かれんと言われる父を信頼せず、自分は大丈夫!って走ると、その自分につまずいて転ぶと、主は続く8節で言われたのです。直訳は「あなたの手、あなたの足…あなたの目が、あなたをつまずかせる」と。

「迷い出る」とは、エバが「食べたら死ぬ」と言われた実を、自分で食べたように、父ではなく自分を信じたら、父を見なくなる。父に聴かなくなる。そして自分自分の道へと走り去って、命から迷い出る。

だから彼らの天使たちは、代わりに見ているのじゃないでしょうか。私たちが見るべきお方を。あなたの父のお顔、その表情を、見てごらん、あなたはこんなにも心配されている、我が子として愛されていると。

だってそんなこと言われても分からないと迷い出る小さな者だから、父のご配慮の下で天使が仕え、同じご支配の下で、教会が、いや自分は別の思いがある、とはならんだろう?と、主は教会に言われるのです。

「これらの小さな者たちを一人でも軽んじないように気をつけなさい」。「軽んじる」の直訳は「下に考える」「見下す考えをする」です。小さいと見下す。つい見下す。皆わかることだと思います。でも小さな者への父のお気持ちを知りながら、見下して考え、その人を受け入れないのは、その人のため天使も、イエス様も見ている父のお顔を見下すことにならないか。「わたしの父の顔を」あなたも仰いで、父よと呼んでいるだろう、本当に気を付けなさいと、主は心配して言われるのです。それは本当に父を「あなたの父」として知って、父の喜びに生きて欲しいからだと。

羊を百匹持っている「ある人」。これが父です。この話は、小さい方が偉いとか価値が高いという話ではない。じゃあ何で見つけたら喜ぶのか。我が子!だからです。小さくて、つまずいて、迷って、おらんなっても、我が子を見つけて喜ぶ父が「あなたがたの父」だからと主は言われます。99匹との価値の比較ではない!むしろ人間が、多いほうが、正しいほう、楽なほうがえいと、モノ扱いの価値で人を見下す誘惑に反対して、父は、我が子だから!喜ぶのだと。他人じゃないから。ましてモノ扱いをして優れてるから正しいから壊れにくいから、そんなはずがないろう。父の失われて良いはずない我が子だから価値があるのだろう。その子の替えはおらんからだろう。もし例え、その小さな人以外の全員が天国に行くから、末っ子ぐらい…そんな見下した考えは決して「あなたがたの父の心でも考えでも求めでもない」。「はっきり言っておく」これは真実だ!あなたは失われてはならない!それが父の御心であり、主の祈りであり、どうして三位一体の御子が神様の命で償いに来られたかの理由なのです。他にないから、あなたの替えは他にないから、わたしが死ぬから、あなたは死ぬな、死んでも死ぬな、わたしが償い背負って一緒に復活もするから、わたしがあなたがたを起こすから、つまずいても起きよ、そして、誰もつまずかせないように、見下さないように、父の家族の愛と赦しで受け入れて一緒に生きようと、すべてを引き受けられた十字架の御子が求めておられる。だから私たちも求める。父の価値ある子、家族として、父の愛と信頼関係に生きる喜びを、父の御心を共に求めて生きるのです。