25/6/15三位一体主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書18章6-9節、サムエル記下6章1-11節
「これっぱあ、の命取り」
先に読みました旧約のウザ。この人は「神の箱」の保管を、何十年も任されていた家の息子です。知っていたと思います。触ったら死ぬと、律法で命じられていると。なら何故?こんなことになったのか。けんど、これっぱあのことでは、と思ったのでしょうか。
今日のイエス様の言葉も「しかし」から始まります。その前から続くからです。5節「わたしの名のためにこの一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と。これらの小さな人を「受け入れる」の反対が、「つまずかせる」だと、わかりやすく比べられます。
人と比べて、どっちが上かと比べるのでなく、自分よりも下に見える人を、愛し受け入れるか、つまずかせるか。あなたはどちらを選ぶかと。それが、3節の「天の国に入る」ことと、今日の「火に投げ入れられる」裁きとも比べられ、だから!あなたがそうならんために来た!わたしを受け入れて歩みなさいと、天の父のご支配の中へと導かれるのです。
つまり先の場面で、子供がイエス様に、おいでと呼ばれて、信頼して、テクテクとイエス様の愛のご支配の中に入ってきたのに、です。もし、「これら小さな者の一人をつまずかせて」転ばせ、ここは小さな人間が入れるところではないと、入りたかったら頑張って立派な大人のように、ちゃんと…もうお分かりだと思いますが、キリストが私たちを十字架で償い、赦し受け入れて下さった愛で「しかし」相手を受け入れないのは、けんど、これっぱあ、の軽い罪ではないと主は言われるのです。その罪の重さは、重い石臼を首に結わえられて…と、ユダヤ的な誇張表現で、え?と気を引く言い方をされた上で、「その方がまし」と比較なさいます。しかも、まし?と思える誇張表現との比較です。主が死ぬほど愛される小さな者をつまずかせる罪は、じゃあ、どれほど後悔する大きな裁きを受けることになるのかと、自分の事として考えさせるのです。つまり、人間は裁きを、最後の審判の大きさを受け入れてないから、小さい者を受け入れず、つまずかせても、けんど、これっぱあと思うのではないか。
全く逆だと主は言われるのです。3節で直訳は「向きを変えなさい」と言われた、父のご支配の大きさに、小さな者に注がれる憐れみの大きさ、その愛から人を遠ざけ、つまずかせる罪の大きさに、目を向けなさいと。
その憐れみのご支配の中で、こんな私が受け入れられたとキリストの愛を尊び、その愛で、自分も小さな低い者として小さな者を受け入れて生きるか。それとも、人をつまずかせるなど小さなことに思える「世」の生き方に倣い、だって皆やりゆうやかと生きるのと、どちらが幸いか。「世は人をつまずかせるから不幸だ」。災いだ。そう見えないだろうかと主は問われるのです。
人と人との関係が、何で不幸になるか。軽んじて、つまずかせるから。重んじて受け入れないから。それが当たり前すぎて、だって皆やりゆうと思える世界。「つまずきが避けられない」ほどに、受け入れない世界。その不幸な生き方、態度を、じゃあ私は捨てる、私は人を受け入れると思っても、人を愛し受け入れたいと、きっと思っているに違いないのに、受け入れられない!と上からの態度になってしまう自分を見つけること、あるんじゃないでしょうか。本当は自分こそ神様から裁かれる者なのに、人を裁く上からの態度や言葉や行いによって、人をつまずかせる。
その時は、ごめんなさいイエス様と、方向転換して、何度も何度でも、十字架の赦しと愛の信頼できる関係に、天の父のご支配に帰って来れば良いのです。それで、つまずかせた相手にも、もし相手がつまずいてはなくっても、ごめんなさいと自分を捨てて。あるいはもし相手がそれを受け入れてくれなかったとしても、それを裁きたくなる、上から目線を、えぐり出すように自分を捨てて、キリストの命に生きる方がずっと良い。父の十字架のご支配に、はいと身を低く生きる方が、ずっと良いのです。
「世」は、それを幸いとは思わない。自分のプライドを捨てないのが幸せだ、皆やりゆうろうと思わせては、父の愛のご支配に、つまずかせ、自分を信じろと。その生き方を「イエス様を信じる小さい者」が見て、足が向いて、自分の手で幸せを掴もうと、不幸な生き方へと迷い込む。
その不幸の中で、あなたには生きて欲しくないと、イエス様は、世の言い方で敢えて言うなら、わたしは三位一体の御子だというプライドなど、いらん!と地獄の火に投げ入れて、手足どころか、命を父なる神様から切り離し捨ててでも、あなたが永遠の裁きに命を投げ入れるよりは、ずっと良いと、私たちに命の幸いを死ぬほど求められる。その憐れみの神様を信じるのか。自分を信じろとつまずかせる世を信じるのか。もうわからなくなって、父のご支配の群れから迷い出てしまう小さな者が、捨てられて良いはずがないから死なれた主が、そのつまずきを捨てて、共に生きよう、わたしは主、あなたの神だからと、受け入れてくださる。だから赦され受け入れられた者として、赦し受け入れる命を歩むのです。