25/6/8聖霊降臨日礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書18章1-5節、イザヤ書57章14-19節
「腰の低い神様のご支配」
「わたしの名のために」あるいは「わたしの名によって、このような子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。そこにキリストが一緒におられ、あなたはわたしの気持ちを受け入れてくれた。これは、わたしが全ての人を受け入れる愛だと、ご自身を現してくださるのです。聖霊降臨日の御言葉で言えば、教会は、地の果てに至るまで、こうしてキリストを証言する。これが神様の、赦し受け入れる救いなのですと。
でも未だ弟子たちは「誰が天の国で一番偉いか」と如何にも人間的な、人と比べる考え方を、神様も考えるはずだと、勝手に受け入れています。「偉い」の直訳は「大きい」。人が思う大きさに神様も価値を置くはずと誤解するから、神様の信じ方も、人の救われ方も、誤解するのです。
それでイエス様は「心を入れ替えなさい」。直訳は「方向転換をして」180度グルっと向きを変えなさい。大きさに心動かされないで、小ささに心動かされるようにとも言えるでしょう。人の小ささに心が動かされる神様の心の方向に、あなたも心を向けなさいと言われるのです。
神様と心の向きが違う。本当は神様の形に創られて、同じ方向を向くはずの心が、別の方向を向いている。その一つが人の持つ大きさ小ささの見え方、価値観の違い。見える大きさ小ささの考え方の違いです。
先のイエス様の説得でも、たとえ全世界を手に入れてもと、大きさに惹かれる人の心の様を見抜かれて、いかに大きな力や富を得ても、命を失ったら、世の力は、命を裁きから救えないと注意されました。
確かに大きな備蓄があったら、食料もお金も、あるいは人脈や知識、能力、自分に大きな備蓄や貯蓄があれば、余裕をもって必要を満たして、問題も処理できる。そうした世の力の貯蓄が大きいほうが、色々可能なことが増える。だから大きな力を求めることを人間は小さい時から学んでいく。自分に大きな力が無ければ、生活力とか大きな力を持っている親や大人、文字通り大きな人に頼ることを、子供は自然に学んでいく。寄らば大樹の陰。それは人間が持つ当然の知恵とも言えるのです。
なら人は、天の父よと、大きな神様に信頼して、大きく頼っているか。頼ってないのではないか。世の大きさに頼っているのではないか。心が、何に動かされ、何に向いているだろうかと、主は問われるのです。
だからです。人間の大きさに心が動かされる私たちが尚、そんなにも父との信頼関係が小さい、父との関係に心が向かない自分を「低くして」、大きな父よ、赦して下さい、憐れんで助けて下さい!と、低い者として、事実低く小さいから自分で自分を生かすことが出来ない「子供のように」父の心の大きさ、憐れみの大きさを信頼して歩めば良い。それが神様の真実だからと、このような子供を受け入れられる父の膝へと招くのです。
イエス様が子供を呼んだら、テクテクっと来たように、主と共に歩む。主と生きるための方向転換をするのです。つい心が考えてしまう、人と比べること、力の大きさ、自己満足に誘う魅力いや魔力と言えるサタンの誘惑の大きさに対し、イエス様は「ハッキリ言っておく」と断言してくださいました。それは、私のためにハッキリさせて下さったのだと、ハッキリ腹を決めて!神様とは正反対に向かせる大きさに、いらないと。背を向けて、イエス様、あなたが主です、あなたのご支配に頼ります、助けて下さいと、身を低く歩む。そこに生ける神様が共におられます。
でないと「決して天の国に入ることはできない。」そう言われたのは、本当に大事なので何度も繰返される「天の国」つまり「父のご支配」が、父が求められる親子の信頼関係に生きる愛のご支配だからです。親子の信頼関係に入るのに、レジで1万円札出して大きいがしかないですけどと言うような大きさ出して、これで天の関係に入れるろうと。それで入れるような関係は信頼関係でしょうか。天国は貯えが大きければ入れると思って、自分に大きさを求めて、自分はこれができる、あれができる、だから神様に受け入れられるろう、この大きさは神様に通用するはずと、全世界を創られた大きな神様を!自分の小さな物差しで見くびって。
イエス様は、このことは言葉だけでは通じんと思われたのか。子供を真ん中に立たせて、ハッキリ言う、決して力の大きさでは入れない、決してだ。「だから自分を、この子のように低くする者が、天の父のご支配の中で一番大きい」と、父の救いのご支配の何たるかを、何度も繰返し、決して弟子たちを捨てないで教えて下さるのです。私たちも祈る御国を。御国が来ますようにと祈る時、何を求めているのか。天の父の憐れみの大きさを聴かされながら、信頼できる駆け寄っていける父の大きさに、なのに頼れず、世の大きさに心奪われる弟子たち。私たち。父のご支配から遠のく全ての人を、だから皆!背負われて陰府にまで降られ、一番低くなられた!人となられた御子なる神様が、この赦しのご支配の中に入って来なさいと大きな救いの手を拡げておられる。ご自分を捨てて!私たちを選ばれて。その神様の低さに背負われない罪も人もいないから、この愛のご支配の中で自分を低くして、十字架の救いを証しするのです。