25/6/1復活節第七主日礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書17章24-27節、イザヤ書66章1-2節
「愛の関係故の肩代わり」
何ゆえに、どんな理由から、何をゴール・目的に、それをするのか。同じことを行うにしても、何故?それを行うかの動機が違っていると、ん~それを求めちゅうのではないと言われること、ないでしょうか。
例えば、決まりだから行うとか。国への納税も、そうかもしれません。ここで言われる神殿税はローマ国家が求める税金ではありません。が、決まりだから払うのだと思われやすかったのかもしれません。日本では納税と言うので「納める」と訳された言葉、例えば英語だとpay「支払う」と訳される言葉です。とするとペトロが「支払います」と言ったのなら、如何にも決まりだから神殿税を払うという感じになる。決まった献金額を支払うという感じがせんでしょうか。国との関係はそうであっても、主のお働きに奉仕するための宝も、決まりだから払う、のでしょうか。
イエス様は、献金は、払うのでなく、主のお働きのため、主に献げる愛の形であることを、ペトロに・教会に・私たちに教えられます。27節で主が言われた「納めなさい」の直訳は「与えなさい」で、ニュアンスが違う。同じことを行うように見えて、その理由・目的が違うのです。
「彼らをつまずかせないために」。何故?つまずかせんようにするのか。自分にトバッチリが来んように自分を守るためになら、自己愛であって、愛ではないでしょう。人をキリストに、教会に「つまずかせないために」。どんな人も、キリストとの関係に生きて欲しい。それが父の御心です。次の章も「小さな者を」「つまずかせない」愛に、具体的に生きることが焦点になります。どんな愛に、何故、生きるのかが問われます。
敢えて大胆に言えば、神様ご自身は人から愛されねばならない必要はありません。じゃあ神様を愛さなくてもよいと誤解されやすいのですが、愛を求められるのは、神様と私たちの関係が、親子と同じ、愛の関係であるように神様が私たちを愛し求めて、人を創造されたからです。その関係が愛である故に、愛され愛する。それが愛する理由、命の理由です。
その神様との関係が回復し、罪から救われること(1:21)。それが愛の目的です。関係が自分自分で破れている私たちだから、破れを繕い赦し癒すために、主は愛に生きよと求められます。破れを繕う最初の糸口は、全くの恵みによって神様から与えられますし、関係につなぎ止められもする。でも愛は双方向によってのみ、関係として保たれ、育つからです。
人間は、でも愛さんでも天国に行けるがやろうと、まるで愛を金銭のように、払わんでえいなら払わんと誤解する。だから支払うのではない、愛されて愛することが、父の家族関係の!当たり前だから愛するのだと、御子イエス様が、関係の救いの愛を、私たちに教えられます。
それが「王とその子供たち」の関係の譬えです。常にこの天の父との関係を土台に考えるのです。関係を保つために必要な対話、主の祈りも。つい対話なしで自分の考えで自動的に生きてしまいやすい私たちだから、先ず呼びかけよ「我らの父よ」と。あなたがたは父の家族なんだからと。
でも、そう生きることが人間には当たり前でないから、誤解しやすい。神様の事でなく、人間の事を考えて、それが当たり前だと感じさえする。その私たち人間が、父の子として愛する生き方は、ならば奇跡のように与えられるしかありません。魚から銀貨が出るように!人間から人々の救いに奉仕する愛が出る。その奇跡を、主は真実に求められます。
前の頁でも、悪霊を追い出せなかった弟子たちに、父との信頼関係が小さいからだと主は言われた。その上で、あなたがたに、からし種一粒ほどの小さな信頼があれば、動かせるはずのない山に向かって「移れと命じるようになる」と約束されたのです。できるようになる。信頼して、命じるようになる奇跡の信頼が、聖霊様によって与えられる。わたしは、そう父に執り成しているからと。それが来週の聖霊降臨です。
人間からは出ない、父の憐れみの御業を信頼する、親子関係の奇跡!それを、愛の関係という角度から教え直されるのが、この御言葉です。
先の信仰告白の「愛の業に励みながら」も、決まりやきとか、けんど愛さんでもと、そこでイエス様との関係を思うより、自分のことばかり思うかもしれない。そこに示される命の破れ、関係の破れ、罪と死から、だから神様が救い出しに来られたのです。破れた命も、破れた関係も、わたしの命で肩代わりすると。目には目を、命には命を。わたしの命が肩代わりだからと。人間は、これを行ったらえいがやろうと、愛も命も、金を払うように考えても。人の命は、決してそんなに安くない。だってあなたは替えのきかない、父の子ではないのかと、替えのきかない永遠の御子が、だから私たち人間の肩代わりをされて、人は破れが繕われる。父との関係が回復する、愛と信頼関係の中で、命は救われるのです。
その愛で私たちを愛される御子が、金銭で、人がご自分につまずくのは望まれないから、「つまずかせないために」愛の奇跡をくださいます。その愛を信頼して、この人も御子が命を肩代わりされた、大切で替えの利かない人だからと愛する。そこにキリストの愛の奇跡は起こるのです。