25/5/25復活節第六主日礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書17章14-23節、詩編33篇
「主への信頼が小さいと」
この弟子たちの激しい悲しみは、私ならどんな時に…と考えました。少し躊躇しつつ譬えるなら、もし妻が病院から帰って、私は後半年しか、あなたと共にいられないと言ったら、胸が激しく痛むと思います。
それだけ弟子たちにとって、イエス様が共にいることは、絶対なことだったのでしょう。無論、天の国、神様の救いのご支配を、自分たちも人々に宣べ伝えておったのですから、救いに必要な復活の意味も、全く知らなかったわけではない。でもそれが心に結びつかないほど、痛みが勝って、この痛みを引き起こす、死ぬということを否定することばかり考えるか、何も考えたくない。この苦しさから、ただ逃げたい。
十字架前夜のイエス様の心の弱さも、これに近かったのだと思います。私たちの弱さや痛みをも共に背負って下さるために、人となられた神様、「人の子」が、だから十字架の身代わりの死による救いを、弟子たちの心に繰返し刻もうと求められます。忘れてはならない愛の痛みをもって。
そのイエス様が背負われる、病んだ人間世界に対するお気持ちが、生々しい言葉で伝えられている御言葉でもあります。ただ直訳のほうが、私たちに伝えようとされているイエス様のお気持ちが逆に伝わりよいと思います。17節の直訳は「ああ、不信仰で逆さにひっくり返った世代よ。いつまで、あなたたちと共にわたしはあるだろうか。いつまで、あなたたちを抱え上げているだろうか。その子をわたしに!連れて来なさい、ここに!」。
「いつまで」の後の動詞は、どちらも未来形です。だから責めているのでも、不満や文句をぶつけているのでもなく、問うておられるのです。ご自分に問うておられるのであれば、そうだ、わたしは主、あなたたちと共にいる神、インマヌエルだと。人の弱さを背負い痛みを覚えながら、それがわたし、世界の救いなのだからと。我慢と訳された言葉は例えば重い荷物を抱え上げて耐えるのです。世界の罪と裁きを背負われ死にに来られた御子に、だけどもし、神は愛だから苦しみ背負うのは当然だと、人が思うなら、よこしまと訳された、人間が神様より上にひっくり返り転倒した態度が、そこに見えてしまうのでしょう。そんな私たちをこそ、抱え上げ背負われ忍耐される方が「共におられる」神様だと、私たちは「ひれ伏し」「信頼」しているか。この神様への信頼が問われるのです。
人間の親が、つい子供に文句を言ったり責めてしまう姿を、イエス様に重ねてしまうのも分かりますけど、それもマタイ福音書で強調される「薄い信仰」直訳は「小さな信頼」ではないか。それは「神様のことを思わず、人間のことを思う」信頼の小ささではないだろうか(16:23)。
その小ささをイメージすれば、見えたと思っても、あ、また見失った、という小ささ。前にペトロが、私も水の上を歩いてそちらに行けるよう命じて下さいと求めて、少し歩いたら、心がイエス様から離れて沈んだ、ほんの少しだけ見えた、風に揺らぎ見失う「小さな信頼」(14:31)。
これをヤコブの手紙では「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く」信頼だと説明します(1:8)。直訳は「二つの心」です。主のお気持ちを信頼し歩けない水の上で主に委ねる心と、いや無理と自分を信じる心が、言わば、配線が中でほぼ切れているマイクのようにONとOFFを繰返す。時折ONで主のお気持ちが信頼の中を流れ、はいと水面に足を踏み出す時、流れる電流のように聖霊様が働かれ、キリストが!御力を現わされます。
人間はできない。信じればできると言うなら、人間の事を思っていて、自分を捨てた信頼関係の生きた流れを、自分!の思いが「つまずきの石」となって遮断するから、私たち転倒した人間にはできんのです。
でもその人間が、ご自分と信頼関係に結ばれ、痛む自分を捨ててでも一つに結ばれ、神様が死なれるほどの「憐れみ」の御力が、一つの心!を流れ運ばれることを、そして神様を否定する世界が救われ、悪の支配から解放されることを、神様は、死ぬほど求められている!だから主は、山が移る信頼を、あなたは持つようになると言われるのです。
「からし種一粒ほどの信頼があれば」と言われた信頼も、指で持てんほどの小ささです。人間はすぐ「大きさ」を求めます(18:1)。でも主は、自分で持つ大きさは小さな人をつまずかせるき違うと言われます。自分を捨てて主と共に持つ小ささが、信頼だから。主が共におられて、常に背負われ、なら自分を信じてもと流れがOFFになるのではない。むしろ、小さい人を憐れまれる神様を、世界が共に見ることができますようにと、主と共に!自分を捨てる信頼を通して、救いは形となって世に現れます。主は、あなたにそうなって欲しいと、人間には不可能な山を、あなたと共にいるわたしが動かすからと言われます。直訳は未来形で「この山にあなたは、移れと命じるようになるだろう」。先日、老衰した祖母に神様に会う前に洗礼受ける?と聴いた時がそうだったと思います。30年以上も不動に見えた山が静かに、うん、と動き洗礼を受け、天に移りました。主のために自分を捨てた先に、死ぬほど信頼できる救いがあるのです。