マタイによる福音書17章1-13節、ダニエル書7章13-14節「人の思いを超える神様」

25/5/18復活節第五主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書17章1-13節、ダニエル書7章13-14節

「人の思いを超える神様」

この状況で、よう口をはさむな、ペトロと、ちょっとびっくりします。皆さんは口はさめます?この状況にいて。

目の前でイエス様が輝き始めるのです。え?これモーセがシナイ山で十戒を神様から頂いて戻って来た時、その顔がまぶしく光りよったがと同じお姿やか?と思ったんじゃないでしょうか。そしたらそのイエス様の前に二人、人が見える。おそらく一人は格好から推測できた。らくだの毛衣を着て、ナジル人の徴として頭髪も髭も一回も切ってなくて長い。エリヤや!洗礼者ヨハネが同じ格好をしていましたから、すぐ分かった。なら後一人は先の顔が光っていたつながりで、すぐ思い浮かぶ…あれが、モーセか。聖書で聴いた代表的な神様の僕がイエス様と話をしている!息を飲み、驚きに言葉を失う場面で、「主よ、私たちがここにいるのは」と、自分らがここにおることを、言わないかん!と思ったんでしょうか。場をわきまえないで、つい言ってしまうペトロ。憎めないキャラクターだなと、つい笑ってしまうのですが、うんと子供っぽく、幼いと言うか。そのペトロを、天の父も、憎めない、いや、どんなキャラだからとかは関係なく深く愛しておられて、これを咎めたりなさらんのです。

むしろ「これに聴け」と、天の父直々に!父が御声を!かけられます。聴かないかんのです。「御子に聴け」「わたしの愛する子」だから!御子がどんな思いでここにいるのか。これから、いよいよ目前に迫ってくる十字架に向かって、どんな思いであなたがたに、わたしと共に来なさいと招き続けているのか。御子に聴きなさい。聴くがでえ!と。

自分が自分の事を話すより、です。今、自分が主によって、主と共に、置かれている状況をわきまえられなくても。また私との関係がどんな関係であるかをわきまえる以上に、私は今こう思っているという思いが先に出ても、です。その私が今この状況にいることには意味があり主の目的があるのだからと、その目的が果たされるため「人の子」となられ、苦しみ死んでも共に歩まれるイエス様に、主よ御言葉をください!と、聴くのです。今も父は「聴きなさい」と優しく命じておられます。

「弟子たちはこれを聴いて、ひれ伏しました」。畏れつつ、聴きますと、ひれ伏す。健全な畏れの中で、自分の思いより、神様が思われることを、先ず聴きますと。それが「ひれ伏した」ということでしょう。

ただ私たち人間は、そのひれ伏す態度を、忘れてしまいやすい。すぐ自分の事に戻りやすい。でもならばこそイエス様が、その私たちのため、何と言って下さっているかを何度も聴くのです。聴いたら、これが私の生きる道ですと、忘れんように抱きしめて、十字架の御子の御言葉に「ひれ伏して」、何度も何度でも、私の主よ!と呼んで、共に歩めばよい。

もし、共に歩んでない自分につまずいて、私は自分の気持ちも生き方も神様から離れていると思っても!その私たちとこそ共にいて共に歩むために人となられた神様、「人の子」となられたイエス様が「手を触れて」「起きなさい」と優しく呼びかけてくださっている御声を「聴くのです」。つまずいたなら、起きれば良いと。わたしが起こして、一緒に歩むきと、手を差し伸べて触れてくださり、「恐れることはない」、わたしを誰だと思っているのか?わたしが、あなたにとって誰であるのか分からないのなら、聴きなさい。わたしは主、あなたを救うために命を捨てに来た、あなたの神だと、滅びから命を救う御言葉を聴かせて下さるからです。

そう言われて尚、分からんと、十字架で死なれた意味、赦しの必要が、自分の必要として分からないことは、本当に多い。そして分からんまま、私は神秘的な体験をしたとか聞いたら、それが欲しい、それが信仰かと、勘違いして、イエス様につまずいたままになる。だから先ず、あなたが十字架と復活のわたしに出会い、わたしが誰か分かったら、伝えなさい。それまでは誰にも言われんと命じられます。言い換えれば十字架の主と信頼の絆で結ばれて、関係の破れである罪と滅びから救われる、関係の救いが分からんかったら、どうしても自分中心になる。自分!の体験によってとか、自分の信仰とか、自分の善い行いがとか。何でイエス様が必要なが?自分で自分を救いたいと、つまずきが取れない。だから先ず、その罪を背負って下さる神様に、ごめんなさいと、ひれ伏し悔い改める態度から、ありがとうございますと、愛と信頼の絆でキリストと一つに結ばれた、赦された僕として、共に歩むのだと命じられるのです。

その悔い改めと赦しは洗礼者ヨハネも宣べ伝えました。でも聴いても認めない人々は「好きにあしらって」殺してしまった。赦しの御言葉は、本当に分かってもらえないことが多くて、本当に苦しい。だからこそ、その苦しみを背負って十字架を背負って何もかも背負ってでも、一緒に関係の救いへと、あきらめないで歩んで下さる「人の子」のお気持ちを、愛の苦しみを、だからこそ信じることの出来る十字架の赦しの言葉を、聴くのです。「起きなさい。恐れることはない。」あなたの罪は赦された。ここに神様の、人の思いを超えて救われる、命の光は現れるからです。