25/5/4復活節第三主日礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書16章21-28節、詩編49篇
「自分を捨てる恵みの愛」
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この御言葉を今日は説き明かします。イエス様に「ついて行く」のと「従う」のと、日本語だと何が違うのかと思うかもしれません。「従う」の直訳は「共に道を行く」。共に!ですから、一人では不可能です。だからイエス様と一つに結ばれ背負われて、イエス様と「共に道を行く」とイメージしても良いのです。
でも「ついて行く」のは、二人の間に、距離があるかもしれません。距離を置いたほうが、共にでなくて楽と思うことも、あるでしょうか。
だから主が言われるのは「わたしの後について来ることを求める者は」、その求めが、もし自分の自己実現を求めていて、キリストと「共に歩む」命は求めてないなら、その自分に「つまづき」共に歩めんなる。うんと分かりやすく言えば、誰かを自分のために利用して、ついて行きますと言うのは、信頼関係で結ばれて、共に歩んで行けるのでしょうか。
それを神様や救いに当てはめて考えることが「神様のことを思わず、人間のことを思っている」ということではないかと思うのです。
なら、神様のことを思い、求めるとは、どう求め、生きれば良いのか。それがペトロにも私たちにも身に着きにくく、だから繰返し教えられる「先ず、天の父のご支配を求めなさい」(6:33)、この求めです。
それを28節では「その国」、人の子のご支配が来るから、そのために!わたしはあなたがたと一つに結ばれるために、人の子となったのだから、わたしと結ばれて共に歩みなさい、自己実現は捨ててと招かれるのです。
人間関係でも、相手との関係で、自分の得を求める時、相手のことは思ってない。私たち、神様のお気持ちを、どれぐらい考えるでしょうか。
前にも紹介しましたが『定年夫婦のトリセツ』という本に、こうある。具合が悪そうにしている妻に、医者に行ったのか、早く医者に行け、は最悪のNGワードだ(苦笑)。むしろ先ず相手の苦しみに共感し、優しく接する。それが一番良いと。つまり問題の解決を求めることが一番ではない。解決より、関係!を一番に求める。これは聖書が教える神様の形に創られた人間の生き方の、基礎中の基礎でもあります。
御言葉に戻りますが、相手が人でも神様でも、関係の問題は、自分や自己責任で解決できんのが、関係です。だから「共に」を求めるのです。
先ず相手との信頼関係を一番に求めることから始める。私たちの関係は愛と信頼の関係だと、態度と言葉と行いで保証することから、あなたは私の大切な人だと証明し、証しすることから始める。それを天の父は、人の子イエス様によって、自分を捨てる十字架の愛で証しされたのです。
関係の破れは、自己責任で解決できんから。それで破れたのだから。その破れを背負って、自分に死んででも、赦すからと、あるいは赦せんと思う弱い人間であればこそ、わたしが背負うから!と、私たちの罪と死を十字架で背負われた人の子が、ここに関係の救いがある、わたしに従いなさい、わたしと一つに歩もうと招かれる。そのイエス様に、私はあなたと共に歩みますと「自分を捨て」るのです。
「捨てる」。直訳は「離して否定する」。ペトロが主の弟子であることを「違いますと否定した」、その言葉を更に「離して!否定する」と強調する言葉です。それを自分に当てはめなさいと言われるのです。つまり、イエス様を拒む自分を、イエス様に結ばれた本当の自分から!離して、違うろうと否定する。私はイエス様に結ばれたキリストの者やき、自分を求めるがは私の生き方やないと「自分を捨て」「離して否定する」。
それを「自分の十字架を背負って」と言い換えるのですから、そこに痛みや苦しみがあること、もっと言えば、人間は、それが嫌なことを、主は否定されません。言い換えれば、上段17節で「人間」と訳された「血肉」、嫌なことは嫌だと否定したい逃げたい肉体の弱さを、同じ肉を取られた「人の子」は、共に苦しまれるのです。嫌だと苦しんで「父よ、この杯を取り除けて下さい」と、自分を守りたい人間の弱さを引き受けながら「でも、父の求めがなりますように」と「自分を捨て」、私たちの赦しと命を求めて下さった「人の子」が、わたしと共に歩もうと、共に歩む命を求められるのです。わたしが全部一緒に背負うからと。苦しみも痛みも叫びも、否定したい気持ちも全部、あなたと共に背負うから、嫌だと父に祈りながら共に歩もう。逃げたいですと地面を叩きながら、でも本当はそうじゃないのですと、父よ、あなたのご支配を来たらせてくださいと、一緒に天の父の救いのお気持ちを先ず求めよう。わたしが全部背負って一緒に求めるからと、十字架の人の子が言われるのです。世界の血肉の全ての弱さ、汚れと罪と醜さと滅びを全部、人の子として引き受けられたご自分の十字架で背負い切られて、父よ、この罪をこそ取り除けて下さい、赦しと命を与えて下さいと、神様が!自分を捨てて償って下さったから、人は十字架で救われる。その救いの道を、神様の愛が証しされるインマヌエルの道を、復活の人の子と共に歩むのです。