25/4/20復活祭召天者記念礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書16章13-20節、詩編16篇7-11節
「復活の鍵は恵みにあり」
毎年、復活祭の礼拝のたびに、うわ神様すごいなと思います。聖書の御言葉を順に説教していて、人間側の何の操作もしてないのに、いつも復活の御言葉になる。ペトロの言葉を少し言い換えれば、生きちゅう!神様と思います。私は洗礼を受ける少し前キリスト者の友人とよくこう言ってました。やっぱ神様おるで(笑)。人間が考える神話の神ではない、実際に働きかけ教えて下さる神様がおるで、生きちゅうでと。御言葉は、そうで、だからあなたも、あなたの愛する人も、生きるがで。死んでも生きるがで、と約束するのです。
イエス様が「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われた「陰府の力」の直訳は「陰府の門」。しかも門は複数ですから、亡くなった方々のお墓の入口がお墓の数だけあるのをイメージしたのだと思います。今日は礼拝の後で教会のお墓に行って墓前式を捧げます。十字架の下に兄弟姉妹たちの納骨をしている空間があって、その入口は石の板で塞いであります。が、その石の板は、兄弟姉妹たちに対抗できません。聖書の言い方では、主に結ばれた人は死んだのではなくて、眠っていると言われます。お骨になっても、その体は眠っているということなら、兄弟姉妹たちの霊は、塞がれてはない。墓前式を捧げる時、主のもとにおられつつ、でものぞきこむようにして私たちと礼拝を捧げながら、私、生きちゅうで、キリストに結ばれて、復活を待ち望みながら生きちゅうでと、救いの恵みを共に祝っている。今日の御言葉から、そうやって想像することも許されると思います。
そこでイエス様は、とても印象的でイメージが湧く「天の国の鍵」という言葉を用いられます。この鍵も複数形ですから、ペトロが一個しかない鍵を天国の門番として握り締め、というのではない。キーワードは、洒落ですが(笑)、天国でなく「天の国」と訳した言葉が「神様のご支配」の言い換えであることです。つまりイエス様が、この鍵で神様の救いのご支配を、ここに来たらせなさいと。苦しみのあるところに。無理解や誤解があるところに「御国を来たらせたまえ」、神様の憐れみのご支配をあたえて下さいと祈りつつ鍵を用いなさい。そしたら、そうや、神様は生きちゅうがやったと。神様が、一緒に生きようと私を愛しておられる。罪も汚れも、赦して背負って下さる神様が!私たちにはおられるがやと、キリストに背負われて、恵みによって歩めるようになる。その天の父のご支配の鍵を与えるから、さあ用いなさい、と言われるのです。
具体的に言えば、この救いの御言葉の説き明かしが、既に鍵の一つとして皆さんの思いに、心に、命の深みに届いていたら本当に幸いです。
複数の鍵ですから、この鍵で「つなぐ」というのも色んな「つなぐ」あるいは「結ぶ」があります。何より大事なのは、私たちすべての人の償いとなられて、さあ一緒に生きようと救いを与えるため人となられた神様、キリストと結ばれる「結び」です。洗礼が、それだとも言えます。
ただし、ここでもキーワード、いやキーパーソン、鍵の人物がいます。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ったメシア。ギリシャ語でキリストが、その鍵の人物です。私たちの罪を完全に償うため、全ての人の代表として死ぬために人となられた神様、三位一体の父・子・聖霊の「子」を「神の子」と言います。だったら「生ける神の子」でなく、死ぬる神の子やか、と思うなら、鍵は半分以上回っています。
死ぬはずない神様が私たちの代表となられた。私たちが死んで死後の裁きを受けても、その死も裁きも罪も、あるいは人生で嫌だったことも、呪いとさえ思って神を呪ったことさえあっても、そのあなたたちの全てを背負って、わたしが完全に裁かれて死ぬから、全部引き受けるから、あなたは生きよ!死んでもわたしと結ばれて、天の父なる神様の子供として、共に神の子の命に結ばれて生きよと、死にに来て下さった神様が生きておられる!そして私たちへの愛が死ななない神様が「神は愛です」と生きておられるから!私たちは皆、キリストに背負われて、復活祭を祝って良い。生ける十字架の神様に背負われてない人はおらんからです。
この神様が生きちゅうと、ペトロのように天の父から語りかけられた人は、私たちを背負い生きておられるイエス様に向き合って、あなたは私の救い主キリストですと、キリストと結ばれる洗礼を受けるのです。洗礼という儀式が鍵ではない。結婚が幸せの鍵でなく、相手と信頼の絆で結ばれるのが鍵なのと同じです。キリストと信頼関係の絆で結ばれる。それが信仰です。その関係が、もし人間の力で繋がっちょきと求められる絆なら、あまりにも弱い。私たちの愛の弱さ、心の弱さ、色々と弱い。でもだからこそ、キリストが鍵なのです。教会も弱い。ペトロも弱い。次の段落では、十字架の救い主らあ嫌と絆を壊しかける。そのペトロを、私たちを!だから背負って捨てない神様の赦しと愛が岩の如く強いから、この絆は壊れない。絆を壊す罪の鎖こそキリストに解かれ、人は赦され背負われて、生きちゅう神様と生きる!それが復活の鍵、恵みの命です。