25/4/6受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書16章1-4節、イザヤ書49章1-9節
「今は喜び受け入れる時」
この御言葉の急所は、繰返し、です。先週もそうでしたが、何で繰返すか。覚えて欲しいから。どうしても知って欲しいから。神様が!私たちとの信頼関係に共に生きることを、あきらめないから、神様は繰返されます。でも人間は、あきらめたいと思いやすい。「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という漫画のセリフが有名になるくらい。だけど神様は、その私たちを愛することに対して、最高にあきらめが悪い。
この御言葉に出てくる「しるし」「悪い姦淫の世代」「ヨナのしるし」は、前にも登場した、繰返されるキーワードです(12:38ff)。
一つ新しいのは「天からのしるし」と言われるところです。「天」は、ユダヤ人が好む「神様」の控えめな言い換えです。が、主は、直訳では敢えてその「天」を繰返し、むしろ本当に神様を天と思ってないか?と問われます。「夕焼け」の直訳は「天が赤い」。「朝焼け」は「天が曇って赤い」。そうした「空模様」の直訳は「天の顔」あるいは表情です。
気持ちも人格もない天の顔を見定めるのと同じレベルで神様を思ってないか。父のお気持ちなど、求めてさえないのではないか。でも父は、あなたと生きた関係を求めておられる父だから。生きた心で向き合って欲しいと、あきらめないで、主は厳しい関係の言い方を繰返されます。「よこしまで神に背いた時代の者」と。直訳は「悪い、姦淫の世代」。
姦淫。一体に結ばれた愛と信頼関係を破壊する悪。でもそれが、共に信頼関係に生きるより、自分の思いで生きるのが当たり前になっている世代。今はどんな世代だと思うかと御言葉は私たちにも問いかけます。
神様も人間関係も、もし本当に相手の真実を知りたいなら、信頼関係の外で、そのデータを集めるように、しるしを求めても、分かりません。まして父は関係ですから、父のお気持ちは父子の関係抜きでは分からん。水に入らないで泳ぐのを求めるのと同じで、外から観察しても分からん。自分が考えている神や相手と合致するか証明しようと、相手のデータをモノ扱いするように求めて、合致する証拠を求めても分からない。合致しないからです。相手は信頼を求めて生きているから。神様もです。
人は神様に何を求めているのでしょうか。神の何か、を求めるのか。それとも自分と同じように表情があって気持ちがあって苦しみも喜びもされる生きた相手として、神様との関係の内に!神様を求めるのか。
でなければ、相手ではなく、モノ扱いなのです。自分はモノ扱いなどされたくない、だって私は生きているのにと知っているなら、人も神様のお気持ちも、わかるのです。信頼関係の内に、共に愛に生きるために、その名を愛と呼ばれる神の形に、神様の愛に生きる形に、本当は誰もが、そのために愛され創られて生まれて来たのだから。
でも信頼関係が当たり前の相手に背を向けて、自分の求めを見つめて、相手から良い事が欲しいからと、そのしるしを集め、モノ扱いするなら、それは関係の破れ、姦淫ではないのかと言われるのです。
そしたら相手の気持ちも、相手が自分にとって誰かも見えなくなって、相手が自分の見たい欲しい相手かどうか、見定める態度になる。そして相手が自分の欲望の形と合致するかどうかの、しるし、証拠を求めて、相手を知りたいとデータを求めても、もし相手が生きているなら、求めは満たされない。しるしと言うなら、その態度自体が、神様の愛と信頼関係に生きるため創られた命の形を、自分が破いているしるし、証拠になってしまっているのです。
その破れを繕い癒して共にやり直すために人となられた神様、私たちと共におられるインマヌエルと呼ばれる神様に対して、その信頼関係を避けて、すり抜けて、自分と合致する神や救いを、関係の外で求めても、生きておられる神様と合致することはありません。姦淫に譬えるなら、結婚関係の外で関係を求めても決して応えてはくれないのが、その名を愛と呼ばれる神様です。その神様が、私たちの破れを治しに、命がけで来てくださった。あなたを捨てることを、わたしは決して求めない!と。
その神様が唯一与えて下さる愛の関係の徴が、「ヨナのしるし」です。イエス様が繰返し、このしるし以外は与えられないと強調される、言い換えれば、このしるしは絶対に与える!どんなことがあっても、これをあなたがたに与えることを、わたしは決してあきらめないと「三日三晩、ヨナが大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。それが「ヨナのしるし」です。私たちの罪悪を償うために、神様が身代わりに人の子となられて、裁きの死の中に苦しみ飲み込まれ、それでも、いや、そうするなら!あなたの罪は赦されるから、わたしはあなたをあきらめないからと。約束されただけではない、その約束を命がけで守られた主が、償いは終わった!と裁きの死から出られて、さあ、一緒に命をやり直そう、わたしは主、あなたの神だと、あきらめない!悔い改めは与えられるからと、あきらめない。それがヨナのしるしです。それは与えられる。その神様の愛を、繰返し私たちは、命に刻むのです。