マタイによる福音書15章29-39節、詩編145篇10-16節「繰り返す不信と憐れみ」

25/3/30受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書15章29-39節、詩編145篇10-16節

「繰り返す不信と憐れみ」

説教題を「繰返す憐れみのレッスン」と付けたほうが良かったかなと後で思いました。中々身に着かないから、憐れみが自然体での生き方になるために、主が私たちに繰返される、憐れみのレッスンがある。

「かわいそうだ」と訳された主の言葉。これは「はらわたがわななく」という深い苦しみの共有、内臓が痛むほどの愛の分かち合いを意味する、繰返しイエス様に用いられる言葉です。「深く憐れむ」とも訳されます。

ともすると今日の御言葉自体、また?と繰返される、苦しむ人の癒しと空腹を満たされる話です。が、頁を一枚前に戻った28頁上段14節を読むと良く分かる。主が「大勢の群衆を見て深く憐れみ」と同じ言葉が繰返されて、癒しと、5千人の給食をなされる。これが何の奇跡なのか、その急所が示されます。神様が、私たちの貧しさと苦しみを、ご自分が痛まれるほど深く共有され憐れんで下さる、憐れみの奇跡です。

17頁もお開き下さい。上段36節「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』」。

そして選ばれた弟子たちが今日の御言葉で、この憐れみの弟子として、実地での憐れみのレッスンを繰返し受けている。主の弟子は皆、受ける。繰返し!私たち皆、深いところで分かる話ではないかと思います。

ただ、繰返されるのは嫌だと思うのも皆そうなんじゃないでしょうか。だから初めの愛に戻りたいのです。今日の御言葉で主の憐れみを受けた群衆が、神様を賛美しながら味わった愛に。主と「三日も一緒にいる」。じゃ私の病は癒されましたから帰ります、ではない。私たちも自分の事だけでは帰らなかったから、今もここにおるんだと思うのです。

「一緒にいる」「つんのめって残っている」という言葉です。自分だけでなく、他の人の癒しも見届けたかったのじゃないか。主の愛の御業を、最後まで見たかったのじゃないか。自分だけという考えも癒されたから、私たちも洗礼を受けた。憐れみに生かされる命に飛び込んだのです。

その人々を空腹で返して途中で弱るのを、直訳は「わたしは望まない」求めない。もう用は済んだろうと自分だけの世界に帰らせるのが御心なはずはない!なら、そのキリストの憐れみの弟子たちはどうするか

追い返しはしません。それは学んだのだと思います。5千人の給食の時、自分で!という自己責任はいかんと、学ばされた記憶が残っていたのか。だから前と違って「自分で」とは言わない。だけど主の憐れみの御言葉を聴いて、はい主よ、あなたの御心をおっしゃって下さいとも言わない。何と言ったか。直訳は「多くの群衆を満たすほどの多くのパンが、荒野にいる私たちに、どこから?」。「どこから」。記憶が見つからんのです。イエス様の憐れみの奇跡の中で過ごした記憶が

それ以外の!イエス様抜きでの自分の記憶に、答えを探しに行って、でもイエス様抜きの記憶のどこにも答えが見つからんから、無理ですと。

次の頁で主が「あなたは神様の事を思わず、人間の事を思っている」だから間違ってわたしの邪魔をしてしまうと叱られるのと同じでしょう。人間の事だけ思って、神様の憐れみのご支配を、繰返し忘れて道を失い、主の憐れみの中で過ごした最初の愛を、忘れているのです。

ここで群衆が、つんのめるようにイエス様に求めた憐れみのご支配を、人は、すぐ自分たちの事だけ考えて忘れてしまう。でもその弱さを深く痛み共有されるイエス様だから、その痛みを抱え十字架に向かわれる晩、「これはあなたがたのために裂かれるわたしの体であるわたしを忘れないで」と聖餐を聖定された。この聖餐を教会は繰返す。忘れるから!主の十字架の愛の高さ、深さ、広さに、立ち帰らせて下さいと、繰返し教会は祈る。そこに教会の現実の姿がある。そしてその私たちを決して忘れることなく、わたしを忘れないでと、生きる痛みを分かち合われる神様の憐れみの現実、キリストの現臨が、その教会と共にあるのです。

愛も憐れみも何でイエス様を信じているのかも忘れてしまう私たちを、だから放っておけないで痛み悶えて苦しんで命を共有される神様です。主を求めて来る者たち、その足もとに横たえた人々をも主は癒されます。誰が足もとに置き始めたのか。まさか姥捨て山のように捨て置いたはずはないのです。そもそも横たわることしかできない人を「連れて来た」人たちがいた。私も何度も妻に、救急外来に連れて行ってもらいました。一人では行けない。心細くもある。でも妻も、きっと心細かったと思う。誰かを病院に連れて行った記憶がある人なら、きっと分かる。不安で、無力で、連れて行くことしかできないけど、連れて行ったらと期待して、この人たちも期待して、不安ごと苦しみごと一緒に抱えながらイエス様のもとに来た人々を、十字架の神様は受け止めて下さる。その憐れみが嫌だと十字架に神様を釘打つ人間さえ、その十字架で!背負うわたしを、忘れないでと主が望まれる。この憐れみの中を私たちは共に歩むのです。