マタイによる福音書15章21-28節、詩編86篇「恵み深い神様への信頼」

25/3/23受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書15章21-28節、詩編86篇

「恵み深い神様への信頼」

イエス様に「ダビデの子よ」と叫んだ女性。お隣りの国イスラエルに約束されていた外国の救い主の呼び名を、よく知っていたなと思います。まあでも私が米国留学していた時も、上下黒い服で全力疾走しよったら、子供が、忍者!って叫びましたから(笑)、外国でも有名な名前なら知られている。問題は、イスラエルの羊たちに遣わされた救い主のご人格を、その羊たちが知っておったか。弟子たちさえ!どんな救い主だと知って、誰を信頼しておったのか。それが口から見えるという御言葉です。

少し前に主が、やはり悪霊に憑かれ目が見えなかった人を癒された時、群衆が「この人はダビデの子ではないか」救い主ながやないかと言った。それをファリサイ派の人々が「あれは悪霊の頭によってやりゆうがや」と、自分!の信仰で、自分の目を見えなくさせていた(12:22ff)。その姿を主は、先週の御言葉で「目が見えない道案内」と譬えられました。

では主と歩む弟子たち、私たちには、どんな救い主に見えているのか。私たちは祈って主が答えられない時、どんな主であると見るのでしょう。無視していると見るでしょうか。どんな御顔を見るのか。思い出すのは神学生時代、何人かの教授たちに個人的に質問した時のことです。何で答えてくれんがやおと。う~んと黙ってしまい、わからないとも言わん。返答がないまま、でも私の前に共にいて、逃げはしない。説明では通じない大切なことなのだと私が悟るのを待っているように。

イエス様も逃げない。この女性も、じゃあ知るかと先のファリサイ派の人々のように怒って出て行かないで、むしろキリストから離れないで、「主よ」と叫んで呼び続けます。私たち、叫んだこと、あるでしょうか。怒りで叫ぶなら、自分を受け入れろと押し付ける叫びかもしれませんが、「主よ」と上から裁いて呼べるものでしょうか。下から叫び求めるしかないから「ひれ伏して」叫ぶのです。ひれ伏す私を受け入れて下さいと。受け入れるかどうかを決めるのは相手であることを、ひれ伏し受け入れ、でも私を受け入れる主権をお持ちの主は憐れんで下さる主だと信頼して、自分を主にお委ねする。お委ねしているけど苦しくて、主よと叫び祈る。それが、自分でなく相手を信頼する、主を主と信頼する信仰です。

その女性の信頼を、イエス様は見られて、この信仰を、弟子たちにも知って欲しかったのだと思います。どんな弟子にか。御子をくださった父の憐れみのご支配を、まだ悟ってなくて、ファリサイ派の信仰の何が受け入れられないのか、自分の事として分からんかった弟子たちにです。

自分を信じる正しさに奪われて失われた人間を、ご自身との信頼関係に救い入れるために、神様は信仰の父と呼ばれるアブラハムを選ばれた。その信頼関係のご支配を伝えるために、その家族「イスラエルの」を選ばれたのに、なのに失われた家族に!だから遣わされた主のご支配を、お気持ちを知って欲しくて、主は弟子たちを教え導いてこられたのに。その弟子の口から「この女を追い払って下さい」と言われるのです。

その弟子たちに「わたしはイスラエルの失われた羊たちのもとにしか遣わされてない」と主が答えられた時、彼らは自分の失われている姿を見たでしょうか。また何で主はこんなお顔でそう言われるのかと、追い払ってと言った時の顔を見つめられる、主のお気持ちを見たでしょうか。人が飼い主のいない羊たちのように父との関係から失われている悲惨を、平然な顔で言われるイエス様なのか。そんな平然な十字架なのか。主よ、助けて下さいと叫ばれても平然な神を信じるなら、自分が信じる通りにならんと怒って叫ぶ自分を信じる、人間と何が違うのか。そんな叫びに支配された滅茶苦茶な世界を、なのに失いたくなくて!その叫びも罪も身代わりに背負って叫び抜いて死ぬために来られた十字架のご支配の、ダビデの子に、だから私たちもひれ伏して、ご支配して頂いて救われる。失われていたのに、見つけられて受け入れられるの一員として!そのために人となられた十字架の御子に、ひれ伏し、信頼して良いのです。

主が外国人の女性に「小犬」の譬えで話されたのは、彼女の世界では食事の席に犬もいるのが家族の風景だったのをご存じで、またこの人を追い払ってと犬扱いする弟子たちの態度にも重ねることで、父の家族に求められる風景が、どんな風景であるのかを、失われた羊たちに知って欲しくて言われた驚きの譬えです。今なら室内犬と言うのでしょうか。食卓から零れるのはパンだけじゃない。家族の笑顔、恵み憐れみの関係が溢れて、信頼関係が溢れている、誰も失われてない家の姿を、苦しむ娘にも味わって欲しくて、きっとこの人もイエス様のもとに来たのです。その主への信頼は、自分が正しい小さい信仰ではない「大きな信頼」だ。「立派な」の直訳は「大きな信頼」です。少し前、人は歩けない水の上を主から「来なさい」と言われたけど疑い沈むペトロを主が捕らえて「信仰の小さい者よ」と言われた。左頁下でも「信仰の小さい者たちよ」と叱られる弟子たちに(14:31、16:8)、大きな信頼に歩んで欲しくて!主は言われるのです。疑わないでいい。わたしはあなたの神であると。