25/3/16受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書15章10-20節、エレミヤ書17章9-10節
「関係を汚す求めの汚れ」
イエス様が求められる「悟りなさい」という言葉は、自分の事として理解する。丁寧に言えば、自分の目先・口先の情報や浅い知識ではない、真実に生きるための広く深い知恵を、自分に関わる事として判断し理解することです。心の深い所で、心臓や内臓に苦痛さえ覚えながら分かる天の父の心、また父が愛される隣人たちの心に、そしたら向き合える。
主の盲人の譬から分かるように、これは相手の事に関わる生き方です。ただ、見えないというのは、自分も見えてない。目先のことだけ考えて、隣人と生きる広さが見えないと、逆に自分の心が変えられる程の深みで自分が見えない。むしろ今の自分を守る方向に、考えと行動が縛られて、ファリサイ派の人々のように怒って出ていくこと、あると思うのです。父の目に映っている自分の真実を見ないと。だからこそ父が御子を犠牲にされた心・お気持ちを!見る時、初めて自分の心の汚れも見えてくる。
イエス様は「父がお植えにならなかった木」と言われました。前に主が話された毒麦の譬とも重なります。その時も主は「畑とは世界のこと」だと言われました。その世界を、父の子として赦し救うために父が植えられた木がある。この福音書の最初に描かれた、アブラハム、イサク、ヤコブからイエス様へと続く、神様の救いのご計画の木が、それです。神様の契約の民イスラエル、またそこに私たちも繋がり、約束の救いが、連綿と繋がっていくのが、父のご計画だからです。
その約束を守られる父と信頼関係で結ばれた、関係を証しする生き方を結ぶ、父の木。天の父の家族のファミリーツリー。その木を繋ぐのは、けれど人間の血筋や伝統ではない。約束と信頼関係です。人間の家族も、そうでしょう。でもやはり血は大事と言うなら、その契約の血を御子が流されて結ばれた家族関係だから、御子を信頼し、御子と共に、我らの父よ!と呼んで生きる信頼関係が、その約束の結ぶ実りなのです。
なのに怒って出て行ったファリサイ派の人々は、その「神様の言葉を無効にする」人間の事・自分の事だけ考える伝統で、自分を守っていた。それをイエス様にも押し付けて、何で同じことせんと問うので、それは人間の事だけ考えて神様から心が離れちゅうと預言したイザヤの御言葉と同じやかと「神の言葉」を伝えたら、出て行った。それは父との信頼関係を証しするファミリーツリーの実ではないと主は言われるのです。
神様と私はどんな関係にあるのか。なら誰の言葉に生きるはずなのに、実際はどんな言葉を根拠に生きているかが、口から出る。どんな関係に自分が生きているかの証しとして出てくる。口が結ぶ言葉の実によって、その木が分かるとも言えます(12:33ff)。つまり、その木が汚れているから、汚れた言葉が出て、生き方も汚す。自分の生き方だけでなく、隣人の生き方まで汚す。それが主の言われる汚れ、汚染、感染で考えても分かりよいと思います。
父の御言葉を信頼しない自分を信じる態度は、感染する。きっと自分の事としても、よく分かることだと思うのです。子供が、保育園とかで、そんな言葉どこで覚えた?と感染して帰って来る。なら子供たちがそうであるように、私たちは自分の態度や考えの汚れを、自分からはそれが汚れだと悟れなくても、私たちを汚れと滅びから救うために御子を犠牲にされた我らの父の御言葉から、我が身の汚れを知れる、悟れるのです。
汚染された木が「抜き取られる」のは、隣人に感染するのを防ぐため。これが神を信じる生き方だと感染する偽りの証しから、隣人を守るため。共に「つまずいて」穴に落ちるのは、我が子たちに父が求める共にでは決してない。父の共には救いの共に、愛に生きる共にであって、それが信頼関係の共に、我らの父の共に、インマヌエル!神様は我らと共にいますの共にだからです。それがロマ書の御言葉で「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と約束される、我らの父の家族へのご支配!だからです(ローマ8:28)。
そのご支配を私たちに悟って欲しくて、皆に、自分の事として悟って欲しくて、主はファリサイ派の人々を「そのままに」されます。それで十字架の道が加速して、ご自分も弟子たちも苦しんでも。そのことで!どうしても神様を信頼する理由が分からない、自分を守ることが正しいと高い壁を作って心が神様から遠ざかって本当に分からなくなる私たちの汚れを、だからこそ!主が引き受けて飲み干して汚染され汚くなって、父から、あなたは受け入れることが出来ないと棄てられる、身代わりの償いによって罪人を赦されるご支配。そこまでして赦してでも、あなたと共に生きたい!と求められる、我らの父のご支配を、悟って欲しいのです。自分の事として。どうして赦すのか。それが関係の清めだから。関係は、心から始まるから。自分では、どうにも変えられないその心に、だから三位一体の聖霊様によって主イエス・キリストが共に住まわれて、わたしが救うからと約束して下さる。我が子がつまずき汚れたら、尚のこと遠ざからない我らの父のご支配を信じて良い。それが心を清めます。