25/3/9受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書15章1-9節、イザヤ書29章9-16節
「心の関係無しの虚しさ」
口をのぞき込んで心が見えたら。でも案外、その人の言葉から、心が見えること、ないでしょうか。行動から、心が見えることもある。形式の行いにこだわって、これをやりゆうき自分は正しいと。それが律法の形式や行動にこだわるファリサイ派の人々の、手洗いのこだわりでした。
衛生的にでなく信仰?的に、罪人が触った何かに触って自分が汚れた可能性を取り除き、私は清さにこだわる敬虔な人ですと周りに表明する手洗い信仰。でもイエス様は、それは神様の言葉を守りゆうが?人間が考える信仰ではなくて、御言葉から神様の心を見て!と求めるのです。
無論、人の言葉も私たちは誤解しやすい。心を誤解するとも言えます。まして「神様の言葉」、特に十戒を代表とする律法を、決まりですからと、神様の気持ちを考えないで、人間の決まりと同レベルにすること、ないでしょうか。言葉に向き合うとは、その相手に向き合うことですから、御言葉に向き合うなら、神様に向き合うのです。律法は神様と私たちが、どんな関係かを教えます。わたしは主、あなたの神と。でもそれは対等な関係か。では、どんな関係か。
説教題に「心の関係無しの虚しさ」と付けましたが、本当は心の関係無視のつもりでした。それを無しにしたのは、日本では形だけの建前の関係が昔からの言い訳として存在すると思ったからです。皆やっていることじゃないかと。でも心の関係を無視する、わざと目線を外すというのは、どこか心に痛みや違和感を覚えていると思うのです。無視する。御言葉によって私たちに語りかけられる神様との、心の関係を無視して、御言葉に向き合えるはずはないと思うのです。
それでも、もし建前の、形式上の関係で大丈夫に感じるなら、自分は大丈夫と見積もるために心が作った、確認リストを代わりに見ることで、神様を無視する良心の痛みが麻痺されているのではないか。自分の心に、これはヤバい、これは大丈夫と、グループ分けで整理したリストがある。でも、ヤバいに整理されていた罪が、ある時、大丈夫、皆やりゆうきと、大丈夫リストに移りもする。心が麻痺して、痛みが鈍磨して、大丈夫、何故ならの理由を、皆やりゆうきに求め、人の決まりに根拠づけて。
だけど神様との関係を無視して、人間関係だけで、皆そうやき大丈夫と考えるなら、本当は大丈夫ではない。神様は義しく裁かれるからです。
でもだから神様らあ関係ないと言うのが、おそらく多くの人の率直な思いだとも思うのです。以前の私も含めて、神様を本当に知らないから。
だからイエス様も十字架で祈られました。父よ、赦して下さい、自分が何をしているのか、誰にしているのか、本当に知らないのですと。
自分が何を誰にしているか。でも本当は知っていたのがファリサイ派を中核とする神の民、神様に選ばれ契約で結ばれたアブラハムの子孫、イスラエルです。だから契約の民とも呼ばれます。口約束の関係なんかじゃない。血の契約によって結ばれた関係を、神様と持つ民です。結婚の関係、また養子縁組の譬えでも言われる、家族になるという関係です。その延長線上で実を結んだのが、キリストと血の契約で結ばれ、神様と父と子の関係に入る洗礼を受けたキリスト者たち、教会と神様の関係、それ故に互いに兄弟姉妹と呼ぶ、神の家族の関係です。その家族の愛と信頼関係の義しい道を示すのが、律法の本質ですから、ここでイエス様も「父と母」という家族の掟を例に出されます。あなたも契約の民なら、知っているだろう、掟に示された神様の心が分かるはずだろうと。
一つの関係に結ばれた者が、互いにどう生きるかをハッキリさせるのが法です。これは罪。これは喜ばしい祝福、神様が喜ばれて、あなたもそうだろうという喜び・祝福は、関係が土台です。だから関係ではない、自分がどう感じる、どう思うかを土台にしたら、関係がおかしくなるし、自分の心も麻痺する。そしたら、関係の絆である、信頼し愛するということさえ、自分を信頼し自分を愛することだと思い始めたら、何もかも狂って分からなくなってしまう。
でも神の家族の掟である律法は最初からハッキリ、誰を愛するのかを、しかも最も重要な掟として、こう告げます「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」また同じように「隣人を自分のように愛しなさい」(22:36ff)。そこに家族が立ち上がり、また神様の家族愛の関係の中で、すべての家族が、祝福に入るのです。それは神様がアブラハムを選び「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束された時から、英語ではハッキリとfamilyと訳す、すべての家族が、キリストへと招かれているからです(創世記12:3)。
神様が人となられ身代わりに罪を負い償われたのは、すべての家族が一つの家族として共に生きるためです。そのために御子をさえ惜しまず償いとされた父の愛の招きに、我らの父よと呼びかけて、祈り応える。律法で、わたしは主、あなたの神、あなたは家族だと愛して下さる主の御言葉に、父の心に、はいと向き合って歩む。父の子として歩むのです。