25/3/2主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書14章22-36節、詩編18篇17-20節
「試練の波を乗り越えて」
「夜が明けるころ」。私たちにとっても、もうそろそろなのでしょうか、まだ少しかかるでしょうかと、いつ明けるのかと苦しむ夜がある。夜。逆風でぜんぜん前に進まない夜の海。疲れて、もう後ろ向いて帰りたくなる気持ちが横切りもする。
でも、その私たちの近くに主はおられるのです。私たちのために父に執り成し祈ってさえ下さっている。見えなくても。何スタディオンとか分からなくても。私たちは決して主の手の届かない所にいるのではない。近いイエス様が、薄い小さな信仰の目には見えなくても。あるいは私に災いが来たのだと、怖れの中で見間違えてさえいても。
主が来られたのです。
モーセが民を導いた荒野にも。主が弟子たちを先に行かせた荒波にも。救いの道を開かれる主なる神様として、憐れみ深い羊飼いキリストが、主の道を開きに来られたのです。
昨日、先の牧師夫人、鈴木純さんの葬儀を執り行いました。人数とか寒さとか心配していましたけど、出エジプトの民に、丁度のマナが与えられたように、すべて丁度、満たされました。葬儀式の後、娘の共さんが純さんの心臓の話をされました。最後は心筋梗塞でしたが、心臓は前から患っておられたと。純さん自身、信仰の遺言書にそのことを記しておられました。
純さんの父親は、戦後、日本基督改革派教会が復興させた神戸改革派神学校初代校長です。その娘も牧師夫人になると、周りも本人も思っていた。でも心臓発作で道が閉ざされ、自分はどこにも行けないと挫折をされた。それから何年も経ち、純さんの友人と、鈴木先生の友人が結婚され、その紹介で導かれて、誰も思わなかった日本基督教団に籍を移し、南国教会牧師夫人としての道を歩み始められました。
歩いて来る鈴木先生を見て、幽霊だと叫びはせんかったと思いますが、牧師夫人として病を抱え歩む道を思った時、激しい波に翻弄される思いがあったのではないかと思います。本人も、それは試練の連続でしたと記していました。でも強い風で波立つ試練の荒海の中、きっと純さんも「主よ、あなたなのでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい!」と、イエス様に祈ったと思います。祈るしかない。
たぶん妻も同じように祈ったと思います。後で益先生が言ってました。こんな男に嫁いで大変よ(笑)。いや本当に今も大変と思います。たぶん鈴木先生も結構大変だったと思いますが、実は皆そうなんじゃないか。結婚だけじゃない。飛び込んでいくという表現は誇張ではない。きっとペトロがそうだったように、目に見えるところだけで言えば、足元は水にしか見えない!本当に水面に飛び込んでいく思いで、イエス様お願いしますと、何度も何度も、イエス様を信じて飛び込んで行かんかったら、どだい無理な歩みだと思うのに、それでもイエス様から「来なさい」と命じられたら、主よ、あなたが命じられたのですから、あなたが責任を取って下さるのですよね、あなたが命じて下さったからですと信頼して、飛び込んで行ったその足が支えられるのです。水が支えるのではない。水に支えられるはずなんかない。神様が!罪ある目には見えない、その全能の御手で、ただ御言葉を信頼して水の上に踏み出す私たちの足を、その足に踏まれるようにしてでも支えて下さるから、私たちも水の上を歩いて、「来なさい」と召された、主の道を行けるのです。
歩み始めた主の道を、踏み外すこともあるでしょう。ペトロも恐怖におびえて、つい主の道でない自分を守る道を足で踏んだのではないか。モーセに導かれた民が、エジプトに帰ろうと言ったように、自分の道に逃げようとした途端、足が沈み始めることはあるのです。
そんな弱い私たちが叫ぶ「主よ!助けて下さい」の祈りを、ただ主に向かって上げるしかない祈りの手を、十字架の主が捕まえて下さいます。「来なさい」と命じられた主です。その御手は最初から「来なさい」と拡げられています。その手が閉じられることはない。その手が手遅れになることもない。人間は手遅れだと思っても。自分の思いや考えや計画では、もう終ったとさえ思っても。その自分の思いや計画が水に溺れて終わることは確かにあったとしても。主の道は終わらない。その自分の道から引き上げられて、主が「来なさい」とお命じくださった主の道を、主と歩むのに、決して遅すぎるということはない。たとえ死の陰の谷を行く時も、その死も、罪も、十字架で、すべて飲み込んで飲み干して、わたしがあなたを償ったから!あなたの死は復活の勝利に飲み込まれたからと約束される、命を捨てて救われる主の御手に手遅れということはない。救いは主の御手によるからです(イザヤ59:16)。
私たちの手は小さくて、主を信頼する信仰も薄く薄情で小さくても、その私たちを、だからこそ捕らえて離さない神様の愛とご計画が大きいから、その御手に委ねて良い。主が「来なさい」と命じられるのです。