25/2/23主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書14章13-21節、詩編23篇
「心を痛められる羊飼い」
「主は私の羊飼い。」羊のような群衆を、十字架の憐れみ深い羊飼いが、「青草の原に休ませ」恵みの食卓を整えて下さいました。人は「自分で」自分だけの人生を歩むのじゃない。羊飼いが導いて下さる。たとえ死の陰の谷を行く時も!あなたが私と共にいて下さるからと、人生を怖れず歩み通すことができる。
それが、人となられた神様!イエス様の救いのご支配だと、御言葉は証しするのです。王であるダビデの子として人となられた私たちの王は、憐れみ深い羊飼いであられる王なのだと。
そのご支配の何たるかが、でも弟子たちは未だ自分のものにはなってなかったからか。主のもとに来られた人々を、直訳では「離れて別れて行かせて下さい」「自分で」食べに行くように、と言います。そのお金がない人もおるかもとは思い至らんかったのかもしれませんし、おっても、それは仕方ないと考えるのが、当時は当たり前だったのか。今の私たちの社会でも同様でしょうか。「自分で」という言葉、よく使われる言葉だと思うのです。
でも十字架の主は、直訳すると「別れていく必要を彼らは持ってない」と言われます。むしろ弟子たちこそ、別れて行かせる必要を自分自身に持っているから、そう言うのではないかと見抜かれたのかもしれません。でもあなたの本当の必要は、その隣人を、自分のように愛する必要だと。苦しみを抱え、助けを必要としている隣人を見て、深く憐れむ必要を、私たち誰もが持っている。我らの天の父の救いのご支配の中で。だから、わたしが共にいる。それがあなたがたの必要だろうと、憐れみ深い主のもとに、主が我らの羊飼いとして導かれるのです。
この御言葉は既に9章の最後で語られた、主の「深い憐れみ」のご支配の再強調です。17頁上段36節「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」はらわたがわななく、痛みを深く共になさる神様に用いられる言葉です。「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』」。
その働き手が今日の御言葉の弟子たち、そして私たちです。完全ではない。私こそ、主の憐れみのご支配が必要だと知るから、そのご支配に生きられる。深く憐れまれた者だけが、主の憐れみに生きられるのです。
改めて申しますが、主のご支配は、支え配慮し、ケアして、心配して心も配る。食べ物も配る。自分の手にある自分の支えを、はいと相手を支えるために分け与える。共に生きるため配る、愛のご支配です。父は御子をさえ世の償いとして分け与えられて、人となられた永遠の御子はご自分の命を分け与えられて、共に生きよう、死の陰の谷を行く時も!と見捨てないで支えて下さる。それが御子による天の父のご支配です。
主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と何故、求めるか。父のご支配ではない、自分での支配、自己責任に支配されているからじゃないか。私たちの生活に、この憐れみのご支配は来ているか。拒んではないかもしれない。でも自己責任が当たり前の世界で無意識に支配されていたら。だから「来たらせて下さい」と心痛むほど求め生きる。父のお気持ちを、その愛の力を、見させて下さい、この地にも、我らの生活に来て下さいイエス様!と、必ず開かれると約束された憐れみのドアを叩くのです。父のご支配を!その救いに生きる教会として、分かち合う。そこに御国は来るからです。既に主は来られ、神我らと共にますインマヌエルが、共におられる「ここに!」父のご支配はもう始まっているからです。
その支え、ご配慮を、だから自分のもの!と自分で握り締めないで、これは我らの日用の糧だからと、隣人の手を握るようにして分かち合う。先に触れた弟子たちの言葉、群衆を「解散させて下さい」は、主が山上の説教で語られた離縁にも用いられる「別れさせて」という言葉です。だから主は「別れさせる必要はない」と言われる。隣人を自分から別れさせ自分から自由にするのではなく、むしろ父の恵みのご支配を分かち合って、我らの父の家族のご支配のもとに招くのです。
自分の手には、でも、5つのパンと2匹の魚「しかない」と思っても。これも直訳は「ここには持っていません、もし!5つのパンと2匹の魚でないのなら」つまり、これらは分配の対象ではないでしょう、だから、ないです、という言い方でしょうか。非常に現実的だと思います。でも、だから主が!「それを持ってきなさい、わたしに、ここに」と言われる。わたしはここにいるから!わたしに!持ってきなさいと。「自分で」分配するのでも自分で愛するのでもない。自分のものだと数えるたら貧しくなる他ない自分の支配を、主にお献げして、十字架のキリストのご支配にお委ねする時に、それは恵みの奇跡となるからです。貧しい羊たちの救いのため、全て捨てられた憐れみ深い羊飼いが、それで十分と言って下さる信頼の献げ物を、御手に委ねればよい。そこに御国は来るのです。