マタイによる福音書14章1-12節、詩編2篇「神様抜きでの人間劇場」

25/2/16主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書14章1-12節、詩編2篇

「神様抜きでの人間劇場」

娘の予想しなかった言葉に「王は心を痛めた」。ん?「王」?あるいは、これも予想しなかった言葉かもしれません。1節で「領主」ヘロデと呼ばれるのは、国王とは別。もっと小さな領地の領主です。なのに「王」と呼ぶ。それは、この言葉が「支配者」という意味を持つ、この福音書のキーワード、救いの鍵の言葉だからです。支配者の行う「支配」。それが「天の国は近づいた」と主が言われる「国」「支配」と訳される言葉です。

主の祈りで「御国を来たらせたまえ」父よ、あなたの救いの「ご支配」を実現して下さいと祈るご支配は、どんなご支配を求めるのか。逆に、神様が出てくると厄介だと思う人間の支配だと、どうなってしまうのか。

小さな支配者ヘロデは、自分の罪を指摘したヨハネを殺そうと思った。それを実現もした支配者なのに「ヨハネの首を」と言われ「心を痛めた」。何でか。良心の呵責も無かったとは思いません。が、彼の領地ガリラヤの民が、ヨハネは預言者だと信じていたから、殺して暴動でも起きたら、皇帝から頂いた支配権を剥奪されると、怖れ、後悔したのだと思います。

そのヘロデの態度が、彼の弟の妻だったヘロディアは嫌だったのか。ヨハネが自分をも責めたと嫌だったのか。娘を使って首を落とさせます。そのヘロディアの目も、ヘロデは怖かったのかもしれません。宴の客に、どう思われるかも怖かった。人の目に、人の思いに振り回される本当に小さな支配者、裸の王の姿が描かれます。

人の目が気になる。よくわかるとも思うのです。でも神様の目は気にならなかったのか。洗礼者ヨハネが彼に告げた律法の言葉、神の言葉は、単にヨハネが言っている言葉だと思ったのでしょうか。

預言者は文字通り、神様の言を預かって伝えるメッセンジャーです。だから民はヨハネが預言者だと信じているから、神様から遣わされた人だと信じているから、ヨハネは厄介だという扱いをヘロデはする。その自分の罪を指摘するのは、ヨハネであって神様ではないと思う人間支配。なのにその支配者が、人の思いに振り回され、支配されている。ヨハネの首はいかんと支配者なら言えばよいのに、娘の口から出るヘロディアの言葉に、人の言葉に支配されるのです。ヨハネが預言者として語った神様の救いのご支配の御言葉には、抵抗し、あるいは少なくとも保留としたのに。人間人間人間だけの、人間劇場の小さな支配者。

なら振り回されなければ、勝つのか。へロディアはヨハネに勝ったのでしょうか。自分の思い通りにしたら勝ちか。御言葉に罪を指摘されて、認めたら負けだと思うのか。人間のことだけで考えたら、本当に力だけの話になってしまいます。支配したい。思い通りに。神もそうだろうと思って、人間の態度で考えて、御国は後でえいと思うのでしょうか。

でも支配って何でしょうか。神様も同じように自分を支配するのだと、自分を負かそうとしていると思うのでしょうか。神は愛と言うが、愛で支配しようと思う暴力的な愛をさえ人間は思うのか。本当の愛では支配などできないと思うから、人間の支配しか思いつかないから、神様の愛のご支配を求めるという祈りが、本当にわからないのではないか。

その私たちのもとに、その私たちを愛し受け入れて救うために、その名を愛と呼ばれる神様が、三位一体の父・子・御霊の、愛の関係の神様の御子が、私たちを償う「人の子」として来てくださった!全ての罪を背負い償って、一緒に父の家族として生きようと来てくださった。その神様の思いを主は既にこう言われたのです「人にして欲しいことを人にしなさい、それが律法と預言者だ」と(7:12)。まずわたしから、この愛を与える。そしてわたしをあなたに委ねるほど信頼の関係を求める。愛の関係を求める。共に生きよう。それが律法と預言者、神様の思いだと。御言葉による父のご支配を拒み、あるいは留保する人間支配の国にも、すべてを償うため赦すために来てくださったキリストの恵みによって、神様の愛のご支配は始まっているのです。

この世に神の御子が十字架の王として来られた。それがこの福音書のメッセージです。その誕生も「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2:2)と御言葉は告げます。十字架の上でも「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた 罪状書きを掲げた」(27:37)と告げます。その十字架の五日前イエス様がエルサレムに入られた時の言葉は、これです「これは預言者を通して言われていたことが実現するためであった『シオンの娘に告げよ。見よ、あなたの王があなたのところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』(21:4f)。

柔和な王が、人間の罪に振り回されて、誤解され拒まれ、棄てられて、それでも背負う、柔和な真実の強さで私たちを担われる愛のご支配の王として、信じられないほどの神様のご支配で、私たちを背負われている。そのご支配を、キリストによって始まっている天の父の救いのご支配を、信じて良い。そして共に祈るのです。ここに父のご支配は来るからです。