25/2/9主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書13章53-58節、詩編40篇6-12節
「自信を修正できなくて」
「預言者」とは文字通り、言を預かる者、神様から預かった神の言を人々に伝えるメッセンジャーとも言えます。人の言葉を用いて語られるけど、神様からの言葉。だから人々が「どこから得たのだろう」と二回も言うのは、神様からと信じてないからです。神様から私に救いの約束が与えられたと信じてないと、この言葉どこから?と思ってしまう。
無論、何でも神からと信じるのは、神様が何と約束して下さっているかを、すっ飛ばして、自分はこう感じる、こう信じるという自分信頼を言い換えただけです。だから神様から預言者が送られます。御言葉から、はいと神様を信頼するのが信仰、神様から始まる信頼関係だからです。
神様から得る以外ないのに、神様から得てないと思うこと、案外あると思います。日本では、子供ができたと言います。自覚なしに口をつくのでしょうけど、私たちが命を、どこから得たと信じているか、どんな命と信じて生きているかが、ポロっと出ているのかもしれません。
この人は大工の息子でマリアからできた命だと、故郷の人々が思っていたのも、おそらく自覚なしに、人間のことだけで考えたから、です。単に自覚がないだけなら、できたと言うがは確かに天の父をあがめない考え方やと私たちも方向転換できる。同じように、主が会堂で語られた御言葉を聴いて、確かに神様から来られた救い主だと、人間のことだけで考える態度を、方向転換することもできたと思うのです。
でもイエス様に「つまずいた」。イエス様を信じるより、せめて御言葉を深く聴いて祈るより、いや、自分が正しいという足場で踏ん張ったということでしょうか。神様が分からないのに、分かっちゅうと譲らない人間の支配が、御言葉によって導かれる神様のご支配、御国を拒む。
その私たちを背負って救われる天の父のご支配を、イエス様は、天の父のご支配は、父と子の家族の信頼関係でのご支配だから、父との関係に生きる、父のご支配を先ず求めなさいと、ずっと教えて来られました。だから人々が親と兄弟姉妹のことを言い、またその家族が!イエス様を信頼しなかったことも、主は付け加えられて、あなたにとって家族とは、人間のことだけなのか?天の父のことを思う関係は、ほんの少しもないのだろうかと、神様のご支配と人間の支配との落差、父の求めと人間の思いの対立を、光と影の浮き彫りのようにして問われるのです。
下の段のヘロデも、イエス様が奇跡を行われると聞いて、あれは私が殺した洗礼者ヨハネが生き返ったのだと、人間のことだけに終始します。神様という言葉さえ出ない。人間のことだけ。神様は本当に蚊帳の外に、信頼の外に!出されている。それが「不信仰」。信頼の外です。
譬えるなら私が説教準備を一段落して、ご飯食べれるき~と妻に言う。食事が出てくるまでの間に週報とか整えて、部屋を出たら食事があって、食べた後、妻に、ありがとうも言わず部屋に戻るなら、夕食が出るのは当然と思っているからでしょう。こうしたら、こうなるはず!と信じて、それでご飯~と言うなら、妻への信頼はない。信頼しているとすれば、こうしたら、こうなるはずと思っている自分の考えを信頼しているのであって、妻の気持ちも、妻との信頼関係の重みも、蚊帳の外。信頼の外。
その自覚なしに自動的にパッと出る、こうすれば、こうなると信じて実感している部分が、自信です。それは自分に関して実感する部分の話であって、例えば妻との関係や妻への実感ではない。自信ではない相手への信頼は、むしろ実感しなくても信頼するという信頼のほうが多いのではないでしょうか。例えば子供が腕時計を無くすと予測しながらも、大事にすると約束する我が子を信頼して、新しい腕時計を買って委ねる。あると思います。もう無くさんと信じるというより、大事にすると約束する相手との信頼関係に、自分を委ねる。愛ゆえに委ねると選ぶから、無くしても裁かない。相手のせいにしないで、共に愛の道を考える。
イエス様の御言葉を聴いた人々が「驚いた」のは、その神様が、神様の救いの道が、自分の信じていることと違ったから!でしょう。人間のことだけで神様のことを考えていたのではないか。家族の関係も救いも、あれをしたから、こうなる、救われるはずだと実感して。でも御言葉を聴いて、え?と思ったら、そこで自分が正しいと信じるか。いや神様が、私に語られているのだと、自信を修正して、方向転換して、神様が私になさっている御言葉によるご支配を!神様を信頼するか。その御言葉が約束する、恵みによる救い、信頼関係による救い、神様は我らの父だ!その愛のご支配にあなたも生きてよいと招かれる、赦しと回復と恵みの神様の救いを信頼するか。信頼して良い。それが福音だから、キリストの救いの御言葉に、驚いて良いのです。十字架の恵みはアメイジング・グレイス!驚きの恵みだから、自分が正しくなくてよい救いの驚きに、神様の偉大な愛と憐れみの中で、我が子よ、父よと家族の信頼関係の中で、赦しの恵みに受け入れられて生きられる永遠の命に、はいと自分を委ねて生きて良い。私たちと共におられる神様に全て委ねて良いのです。