マタイによる福音書13章51-52節、詩編119篇169-176節「律法も預言もキリスト」

25/2/2主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章51-52節、詩編119篇169-176節

「律法も預言もキリスト」

「学者は」と言われたら、あ、自分ではない、と思うかもしれません。これまで「律法学者」と訳されてきた言葉ですから、そう訳すのが自然とも思いますが、これは「学生」「書生」とも言える言葉です。「天の国のことを学んだ学生」。先生ではない。「学んだ」の直訳も「天のご支配の弟子とされた」です。この福音書の最後で復活の主が「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と教会に命じられる大切な言葉です(28:19)。イエス様の弟子として、はいと学び続ける学生とも言えます。

イエス様がどんな憐れみのご支配に生きておられ、どんな態度で天の父に、また私たちに、人々に向き合っておられるかを、自分の事として、お従いするからこそ知っている。誤解して、つまずくことがあって尚、だから、わたしについて来なさいと棄てない憐れみのご支配を、自分の弱さと罪を忘れないで、その赦しのご支配を、はいと知っている学生。

そもそも人は、自分の事として知っていることしか、教えられません。だからもし自分が天の国「天の父の十字架のご支配」を誤解していると、他の人にも誤解させる結果を生んでしまいます。

それが当時の律法学者、ファリサイ派がイエス様から叱責されていた理由です。これが律法だ、これがルールだ、これを守らん人は救われん、それが神だと、律法を誤解し、自己責任の救いを教え、人が作った嘘の神を教えていた。だからイエス様が、父の憐れみのご支配を嘘で汚して、人々をつまずかせてはならない!と強く抵抗されるのは当然なのです。

問題は何故、誤解したか。弟子でなかったから。話を聴いてなかったから。それが「耳ある者は聴きなさい」と譬えが語られてきた御言葉の総括です。耳が痛い話ですが、律法学者の別名ラビは大いなる者という意味だそうです。話を聴く態度で学ぶ学生ではない。自分はイエス様に聴かなくても分かっちゅうという態度だと、その態度を律法に押し付け、何で守れんと裁く。それは学生の聴く姿勢・態度とは真逆です。

先にも例であげましたが、神様から、食べたら死ぬと聴いていたのに、神様より自分が正しいと選んだアダムがどうなったか。守れんかったのは人のせい、神のせいだと思った。自分が正しければ悪いのは人のせいにするしかないのです。逆に自分ができたら、どう思うか。できたのは自分のせいと思う。その態度を続けたら、どうなるか。自己責任の態度に考えが支配されて、律法も自己責任を教えていると思う。しまいには、それしか思えなくなる。他の可能性を心が閉め出し、イエス様のように父の憐れみのご支配を耳に入れようとすると、腹が立ちさえする原因は、自分は正しい、もう分かっちゅうきと、話を聴かない態度です。

でもそれは、天の父の憐れみのご支配を自分の事として学ぶ弟子になったら、変わっていくと主は約束されるのです。

「自分の倉」と訳された言葉は「自分の宝の倉、自分の宝物庫」直前44節で「畑にが隠されている」と「」と言われた言葉です。しかも「天の父のご支配」を「自分の宝の倉!」と言えるほど、父のご支配が、自分の事になるき!と、十字架の主が命がけで弟子に約束されるのです。父の憐れみ深いご支配の弟子になれ、このご支配に生きよう、あなたは父のご支配が、分かったら、変わるから!と招かれるのです。

聖書の言葉からルールを思うのでなく、そこに父の憐れみのお気持ちを思いながら読めるようになるとも言えます。例えば「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(5:3)と主が約束された天の国、父のご支配が、本当にそうだ、自分が何をした何ができるが宝じゃない、自分が貧しくてもいい、その私たちのためご自分を犠牲にして救って下さるイエス様による憐れみのご支配が宝だ、私の宝だと、自分の事として分かると、父から我が子よと喜ばれる信頼関係の幸いに、ありがとうございますと生きられるよう変えられていきます。

父のご支配という宝の倉から「古いもの」律法も預言も分かる。詩編の例えば理解が難しい、敵に報復して下さいと祈る祈りも。全ての悪が必ず報復を受けて犠牲者が報われる、神様の正義の報復を、神様!私は正しくありませんから、あなたにお願いしますと泣きながらでも、神様が正義の裁きをして下さると神様のご支配を信頼する祈りだと分かれば、自分の怒りを押し付ける祈りではないのだと。むしろそうやって自分が正しい、敵を殺したいと悪に支配される私たちを神様が十字架で背負い死なれての裁きなのだと分かったら、御国を来たらせたまえ、イエス様のご支配をください、悪から救い出して下さいと、歯ぎしりする怒りを委ねられる父なのだと分かる。父のお気持ちが分かる。そしたら変わる。祈り方も生き方も、父の憐れみのご支配の中で変えられていくのです。

私は三位一体の御子が犠牲になられるほどの、父のご支配の宝の中で、父の目に宝として映っている私なのだ、父の子なのだ!と、そうでない自分の在り方を捨てたいと思うほどの父の宝として生きられる。ここに救いがある。だから何よりも先ず、父のご支配を求めるのです(6:33)。