マタイによる福音書13章44-50節、詩編16篇「今の自分を捨てる価値」

25/1/26教会設立記念主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章44-50節、詩編16篇

「今の自分を捨てる価値」

どうしても手に入れたい、いや、失いたくない、失ってはならない、失って良いはずがない!と、動く。それがそこに実際に働く支配です。

救いの御子は「天の国」つまり天の父の救いのご支配を、そのように譬えられます。でも、もし、いや救いのご支配より今の自分の在り方が失えないと思うなら。救いのご支配に出会ったけど、面倒になるからと、まるで見なかったように隠したまま過ごすなら。そこで人は何の支配に身を任せているか。今の自分という支配か。何なのか。少なくとも父のご支配を来たらせたまえと求めてはないのではないか。もし、そうなら、その誘惑から、悪から救い出したまえと祈ろう。御国を来たらせたまえ、救いのご支配を来たらせたまえ。そのためにわたしは来たから!あなたを失いたくないからと、ご自分を捨てられた主が求めておられる。その父の救いのご支配、天の国が、ここに近づいているのです(4:17)。

それは今の自分の在り方を失ってでも、失いたくない宝です。だから見つけた宝を、失わないために隠す。どうしても失いたくないから。

譬えを譬えるなら、どうしても洗礼を受けて神様の子供になりたくて、家族に洗礼を受けることを隠すことがある。隠さなくて良い状況なら、無論、隠さんほうが良いのです。理解があることを求めます。でも自分が持っている理解に支配されやすいのが、私たち人間の理解でもある。絶対いかんという理解が心を支配していたら。またその理解そのものを支配している価値観、例えば皆と違うからとか、人から悪く言われたくないからとか、あるいは前に強く否定的な印象を受けて、その印象に、心が支配されていたら、洗礼は、いかんと思うでしょう。

でも皆そうやって今の自分を持っている。今の自分が持っている様々な価値観。今の自分が持っている理解。今の自分が持っている生き方。これが大切だと思い、これを手に入れたい、またこれは絶対に失いたくないと思っている。でも、ある日、それらを失っても良いと思えるほどの宝に出会う。それまで自分には隠されていた宝に出会い、見つけたら、方向がグルっと変わるのです。今の自分が持っているものを失ってでも、この宝を!失いたくないと。

自分の人生と価値観を、今の自分が持っている形でなく、宝に自分の人生を見るように!方向転換するほど、天の父の救いのご支配のもとに我が身が置かれる。では、どちらを選ぶのか?天の父の救いのご支配か。自分か。あなたは今どこにいるかと、十字架の主が問われるのです。

皆さん改めて、今の自分を失ってでも、どうしても失いたくないもの、今の自分を捨てるほどの価値がある、これが必要だと手を伸ばすもの、何でしょう。丁寧に言えば、今の自分を失っても、自分がなくなるわけではない。だけどこの宝を失ったら、私が失われてしまう!と思うほど、宝の中に見る自分が私だ!と思うから、今の自分を捨てるのでしょう。そこに救いの喜びの支配を見るとも言えます。自分も喜んでいる。でも、その私たちを天の父が喜んでおられる。それが父のご支配だからです。

手に入れたい宝のほうが、より価値があると感じるほう、喜びの支配が働いているほうです。天秤で量るイメージで考えても良いですが、頭で価値を計算する天秤ではなく、心で良いと重み・価値を感じて動く天秤。それが「良い真珠」を見て「良い」と実感する父のご支配、父との愛と信頼の関係に救われて生きる「良い」関係のご支配だからです。

だから、もし救いを自分だけの話と考え、頭で計算する善悪の天秤のように、自分は善を多く行っているからと、父との関係を思わず、自分のことだけで神様を誤解したら、天国は場所だと誤解もする。父の場所がない心を考えたら、三つ目の譬えで「悪い」と言われる魚の状態が心で分かると思います。善悪の悪いではなく、例えば冷蔵庫の魚が匂って、この魚、悪うなっちゅう、腐敗しちゅうという言葉です。地引網なので、死んだ魚も網に入る。その魚を、もったいないと頭で計算しても、体と心が受け付けない吐き出す悪さ。もし単に善悪の裁きの神が相手なら、頭で計算して支配してと言えるのです。でもそういう神と支配を考えて、私たちの世界と心は腐っていく。悪に支配されて。違うでしょうか。

その私たちを、父は、十字架で受け入れると。罪による腐敗は御子の十字架で焼いて焼却して滅する。三位一体の永遠の御子が身代わりに命を焼いて、消えてなくならない罪はないから!あなたは完全に罪なき者となる!それが御子を受け入れ洗礼によって清められ、永遠にわたしの子として御子に救われるあなただからと、天の父は御子に私たちを見て下さる。あなたは清い、良い!と洗礼によって宣言して下さる方が、天にまします我らの父だから、その父の救いのご支配を来たらせたまえ、この私にも!と祈るのです。イエス様が、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得もないから(16:26)と自分を捨てて下さった。その失われてはならない父の子として、父のご支配を何よりも先ず求め、生きる。そこに、隠されていた天の喜びの人生は、動き始めるからです。