マタイによる福音書13章31-33節、詩編115篇「小さく思える信頼こそ」

25/1/12主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章31-33節、詩編115篇

「小さく思える信頼こそ」

「天の国は」つまり「天の父の救いのご支配は」どういうご支配か。イエス様は繰り返し、これに似ている、あれに似ていると譬えられます。それだけ誤解されやすいのです。死んだ後の天国のことやおとか。なら生きている間、よほど素行が悪くなければ天国に行けるのだと。天の父のお気持ちを考えないで、場所だと思ったり。何か天国に行ける正しい決まりや法則があると誤解する。父の思いは蚊帳の外で、小さく扱われ、他の何よりも小さな扱いを受けてないか。そう問われる譬えです。

譬えを譬えます。私が人に、家族とはこうあるべきで、家は本来こうあるべきと教えながら、実際の家族との関係が蚊帳の外で、その気持ちが分からず、他の何かに支配されているなら。イエス様が言われるのは、幸生、あなたの家族の存在、あなたの家族の気持ちは、小さなからし種と同じじゃないか。あなたは家族とは何かを誤解している。幸生が思う正しさは幸生と家族の関係を救わない。そこには関係の実体としての愛の支配がないのではないか。幸生は他の何かに支配されていて、幸生にとっての家族は、何よりも小さな存在になっている。でも本当は、その家族関係の回復こそが、幸生の人生を、こんなにも大きく救うのに、と主は言われる。それが天の父との!家族関係の実際の回復という救いのご支配、すべての人に、何よりも先ず求めなさいと呼びかけられている「天の国」だからです(6:33)。

繰り返しますが、主の祈りで、こう呼びかけなさいと主が求め続けておられる神様と私たちの関係は、我らの父との家族の信頼関係です。

でも、その父との実際の信頼関係に、父よと生きる、はいと生きる、ごめんなさい、ありがとうございますと、一緒に笑って、一緒に泣いて、祈って生きる、向き合って生きて、この人生も後の永遠も罪と裁きから救って下さる父のご支配が実際に持っているインパクト:力も、誤解されやすい。小さく思われやすい。あるいは見えないほど、人間の力の中に隠されて、や~先生の説教の力でとか(笑)、人の力だと誤解されやすい。天の父のご支配の力が、そうやって見えんなったら、人間のことばかりになって、父のお気持ちは、蚊帳の外になってしまう。

二つ目の譬えで、パン種を三サトンの粉に「混ぜる」と訳された言葉は「中に隠す」という言葉です。三サトンは約40リットルです。バケツ5杯分!大きな寿司桶5桶分!150人分のパンが作れる、大量!の粉です。そんな大量の粉の中に!パン種は混ぜ込まれ、中に隠れて、見えない。その大きさは、私たちの人生全体の大きさとも、人が生きる世界全体の大きさとも言える、普段の生活で作るパンのスケールを大きく逸脱した、父のご支配が及ぶ範囲を、大きな視野の中で!見て欲しい譬えなのです。人間が、ここに神が必要だと求める部分だけでなく、悩む時だけでなく、私たちが気にしない気にならない忘れてしまう部分も恥ずかしい汚れも罪も何もかも含めての私たちの命の全体に我らの父のご支配は及んでおられます。全て見ておられ、心に留められるだけでなく心を痛められ、人間なら殺意を抱くような態度、罪、燃やし滅ぼしたい汚れの全体をそのために人となられた三位一体の御子に負わせて!御子よ、あなたが人間全体の代表となり主となって、罪の全体を償い、わたしの子供たちを救ってほしいと選ばれた。主は、父よ、あなたの御心がなりますようにと、神様なのに!我らの滅びの身代わりとして死んで下さった。その父の救いのご支配が、私たちの命と死の全体!に及ぶことを、どうか、あなたのこととして分かって欲しい、それがあなたを必ず変えるからと、我らの主として求めておられるのです。

どんなに私たちが自分の思いに支配されて、他の何かに支配されて、父のお気持ちと恵みのご支配は後回しにして、他の何かを誰かを自分を優先しても、その私たちが父の子として生き直して歩む救いを、御子は自分を後回しにして求められ、言われるのです。だから何よりも先ず!我らの父のご支配を求めよう、一緒にひざまずき祈ろう、共に求めよう、御国が来ますように!と、あきらめないで求められる。からし種ほどの、1mmほどの最も小さな種のように、本当に父のお気持ちが、小さく思えていても、それでもいいから畑に蒔いてごらん。その小さな種にあなたの存在を託してごらん。父の命の御言葉に生きて、父のご支配の大きさに、あなたを委ねてごらんと求められるのです。小さく思えるご支配の種が、こんなにも大きな救いの恵みだったかと、分かる日が来るから。天の父のお気持ちである恵みの御言葉を信頼して、御言葉にお従いして生きて、私は本当に良かったと、天の父のご支配の幸いに生きられて本当に幸せだったと、空の鳥たちが憩う大きな木の上で、美しく父をたたえる日が必ず来るから。我らの父の御心に生きようと主が導かれるのです。

その十字架の愛もが、人の目には、どんなに小さく見えたとしても、私たちのために、神様が命を捨てられて救って下さる。これほど大きな愛はない(ヨハネ15:13)。その愛のご支配に、全てを委ねて良いのです。