マタイによる福音書13章22-30節、箴言1章7節「さ迷いやすい羊だから」

25/1/5新年主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章22-30節、箴言1章7節

「さ迷いやすい羊だから」

イエス様は改めて「天の国の譬え」、つまり、天の父の救いのご支配の譬えを話されます。「刈り入れ」は最後の審判のことですから、いわゆる天国の様子などではなく、イエス様によって与えられた救いのご支配が、どのようなご支配で、どのように進展するのか。それを、そら神様やき、順風満帆で問題が起こるはずないと考えると、問題が起きた時に、ああ、神様らあおらん、もう知らんと、つまずきやすい。その私たちのために、十字架の救い、愛の正義のご支配は、そんな楽なご支配やないろうと、主は、クリスマスに御子を与えられた父の実際のご支配を教えられます。

実際のご支配の中では、父との関係を憎み敵対する「敵が」悪い実を結ぶ種を、こっそり、この世界に植えている。「人々が眠っている間に」。油断している時とも言えるでしょう。後で主は、この譬えの意味を説明されます。そこではイエス様が、その僕たちによって救いの種を蒔いている「畑」は、教会ではなくて「世界」「この世」のことだと言われます。主が教会によって救いの伝道をなさる。でも私たちが油断している間に、世界には、その救いの神様に「敵対関係」を持つ悪魔が、麦によく似た種を蒔いて、ここが急所ですが、イエス様が植えられて育っている麦を、一緒に破滅させようとさせる。つまずかせて、もう神様らあ知らんと、引き抜かれ焼かれる裁きの道に、教会を巻き込み引きずり出そうとするのだけど!だけど!なのです。そこで引っこ抜くのは、十字架で御子を死なせてでも世界の罪を償われる、天にまします我らの父のご支配ではないと主は言われるのです。

その理由を主は「麦まで一緒に抜くかもしれない」からと言われます。それがこの譬えの、うんと実際的なところで、日本語で毒麦と呼ばれる品種は、実際に実がなり穂先から毛が出るまで麦と見分けがつきにくい。でも見分けがつく頃には、麦よりガッツリ根を広範囲に張って麦の根にからまっているから、毒麦をズボッと抜いたら麦も一緒に抜けてしまう。そこをイエス様は譬えられて、今ではないと。この世界が裁きを受ける、最後の審判の日は必ず来るから、その日まで待とう。忍耐して待とうと。自分の考え、人間のことで神様の救いを決めず、それで苦労が増えても、自分が損してでも、刈り入れの時まで愛の忍耐を重ねよう。自分のためでなく、世界の救いのための父のご支配に、共に従おうと招かれます。

父のご支配は、異なる者の排除でなく、救済を優先!させるからです。分かりやすく言えば、もし私たちが、自分たちと異なる異端排斥の態度になったら、つまずいて教会から離れる人が出やすい。あるいは異なる教えや生き方であることが、分からなくて、この世にガッツリ根を張る毒麦の根にからみつかれて、別に悪いことやないろうと、言わば善意で、神様に敵対する教え・生き方に巻き込まれることもある。でも善意は、自分の判断の正しさを保証しません。小学生の頃、母から、畑でおネギ取って来てと頼まれ、間違って毒性の強い水仙の葉っぱを持って行ったことがあります。母が区別できる人で本当に良かったと思います。区別は必要です。毒は、神様に敵対する毒は実際に人を滅ぼすからです。

だからハッキリ区別して頂きたいのは、父のご支配は毒自体を決して肯定しないこと。罪を肯定して、かまんかまんというのでは決してない。だけど罪人だからと排除するなら、世界も、教会も、一瞬で廃墟になる。その私たちを、だから主が十字架で背負われて、一緒に、罪には死のう、父に敵対する生き方に死んで、父との信頼関係に共に生きる家族として救われて歩もうと、救いのご支配の種を世界に植えられるのです。

そのご支配に従って、罪は排除しても、自分たちと異なる人の排除は優先しない。つまずく兄弟姉妹の自己責任にもしない。むしろ十字架のご支配の態度に身をかがめ、愛の忍耐の中で、この世界に主のご支配を種蒔くのが、十字架と復活のキリストの僕たちの務めだからです。

例えば三位一体は一人三役という誤解は、聖書の教えとは異なると1500年以上前に教会会議で退けられていますが、私はそれを何年か信じ、ドヤ顔で伝道したことさえあります。それを牧師も仲間たちも、幸生は異端だという態度で扱わず、優しく導いてくれたから今の私がある。

自分は正しいと油断してしまうことは、きっと誰しもある。だから、眠りから目が覚めた時、どんな支配が父のご支配だと目覚めて生きるかなのです。実は土曜日の明け方前、悪夢を見ました。別の教会に呼ばれ説教しているのですが、全員背中を向け座っていて、うちは、こうするのですと言う。それが伝統ならと、すごく戸惑いながら御言葉を語ると、牧師らしき人が立ち上がり、こんな説教は聴くなと言って回る。それで私も講壇を離れ、その人の後ろから、どうか聴いて下さい、キリストの救いをどうかと言うけど、絶望的に声が小さく、もっと大声で言わなと声を上げた時、妻から大丈夫?と起こされ、ホッとしながら思いました。裁いても誰も救われない。父の十字架のご支配が必要だと。そのご支配に生きるのです。主の収穫を仰ぎつつ、人々の救いのため生きるのです。