元旦礼拝説教 ヨハネの黙示録21章1-4節「見よ、神様が人と共に」

25/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

ヨハネの黙示録21章1-4節

「見よ、神様が人と共に」

これは私たちの生活が、どんな新しい生活になるかの完成イメージ、完成予想図です。完成予想図とは例えば公園の建設や、私たちに馴染みがあるのは教会が会堂建築する時、全国に献金依頼書を送って、こんな会堂が建ちますというイメージ図を載せる。少しぼやけた感じの画風で、シャシャッとラフに線を引いたオシャレな車や人が描いてあって、基本、モデルのような八頭身。腹は出てない(笑)。でもそれは目的があって!そう描くのです。こんな美しい会堂なら、良い伝道になるでねえ、よし、献金しようとモチベーションが与えられる。未だ、その時点では、古いヨレヨレの借家が見える現実でも。なら尚のこと!見えるものによってでなく、まだ目には見えずとも、確かで、新しく心を燃やすヴィジョンが必要だと。同じ目的で主は、これがあなたの新しく迎える生活だ!と、黙示録つまり神様由来の幻、神様が御子の命により約束され確証された私たちのゴールを与えておられます。主に導かれ従う新しいこれからの生活が、どんな完成を迎えるか。そうだ、ここに向かって!あなた方は生きている。ここに向かってあなたの生活を献げ献身して良い。これがこれからの新しい生活の完成の姿だと、今は目に見えなくても、確かに共におられる主が、だから信じて良いと励まされるのです。

昨年あるいは既に今朝、私たちがどんな古い自分を引きずった生き方をしたとしても、それは過ぎ去ります。私たちを救うために命を棄てに来られたクリスマスの神様、十字架のキリストの救いの恵みは、真実に、これらを過ぎ去らせます。上の段の11節では、その古い生き方を刻んだ古い天と地は「その(キリストの)御前から逃げて行き」直訳は「場所が見つからなくなった」と言われます。アダムとエバが自分のしたことに恥ずかしくなって逃げたように。そんな逃げ出したくなるような生活の記憶を刻んだ古い天と地を、キリストは、えい、そんな記憶を刻んだ場所はもう無くなってえい、過ぎ去ってえい、これから全く新しく共に生きて行くのだからと、私たちの罪も、その記憶も全部ご自身の愛の内に飲み干して下さって、そのわたしが共にいる!と励まして下さいます。だから私たちは、新しく生きられる。

無論これからも恥ずかしい罪を犯す生き方はしてしまうかもしれない。あるいは古い罪の記憶を思い出すこともある。その傷を、キリストのように完全に飲み込み責めないで共に生きられる愛が、私たちにはなくて、自分を責めたり、人のせいにしたくなることもあると思う。でもそれは、過ぎ去るのです。過ぎ去るからと約束して下さるキリストの救いに全て覆っていただいて、そのキリストの赦しにこそ、留まればよいのです。罪の記憶を追いかけなくてよい。人の脳は変なもので、そういう記憶を追いかけてしまうのですけど、やがて逃げ出して場所を失う世界に刻まれた記憶は、イエス様、過ぎ去らせて下さい、見えなくさせて下さいと、キリストの確かな赦しの約束のもとで、重荷を降ろして良いのです。

過ぎ去って行くから、過ぎ去らせたら良いものは、過ぎ去らせて良い。でもその逆に、永遠の神様が、これは永遠に残る、わたしが大事に残すと喜んで取っていて下さる、神様の心に刻まれた記憶もある。その名を愛と呼ばれる神様を信頼して歩んだ記憶。この過ぎ去る世界の中で自分にも世界にも裏切られ絶望する中で、主は私をお見捨てにならないと、キリストを希望の光として、泣きながらでも、ただただ主に希望を見て、御言葉を希望として歩んだ記憶。そのキリストを愛し、天の父を愛し、聖霊様の愛の実を結ぶ喜びを求め歩んだ愛の記憶は、永遠に残る。過ぎ去るはずがない。あり得ない。それは、まるでキリストの御体に十字架で穿たれた釘の跡が残されたように、この跡はあなたを愛する愛の証拠、あなたのためのわたしだ、そしてわたしのために生きてくれたあなたの信仰と希望と愛は、わたしの心に刻まれて永遠に過ぎ去らないと、主は約束して下さいます。その愛の記憶を、あなたと新しく刻んでいきたい。わたしはあなたと共にいて、過ぎ去らないから。あなたと共に、永遠に過ぎ去らない、真実な生活を共に歩んでいきたいと。泣く日があっても、苦しい時でも、わたしがあなたと共にいて、あなたを背負う。苦しみを背負う。涙はすべて拭われる。拭われない涙はない。恥ずかしい涙も、罪の涙も、わたしが全て拭うから、わたしと共に新しい生活を生きようと、キリストが、信仰と希望と愛の光を注ぎ続けて下さるのです。

私たちが歩み、生きている場所・生活空間は、この教会堂であっても、過ぎ去ります。天と地が去って行くのです。ならその場所で、教会でも、家での生活も、実際に身を置いて時間を過ごし生活を営むどんな場所であっても、過ぎ去る生き方は過ぎ去らせてえいと言って下さるキリストと共に、決して過ぎ去らないキリストを信頼する歩みを、歩めば良い。過ぎ去る、見えるものによってではなく、御言葉によって!まだ目には見えずとも、委ねて死ねるほど確かな救いに動機づけられて!キリストに献身して生きればよい。キリストが、いつでも共におられるからです。