マタイによる福音書13章18-23節、申命記30章11-14節「悟ったらどう生きるか」

24/12/29歳晩主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章18-23節、申命記30章11-14節

「悟ったらどう生きるか」

イエス様は「種を蒔く人の譬えを聴きなさい」と言われながら、譬えの意味を説き明かされます。なら譬えの意味を聴きなさいと言いそうに思えますが、意味を聴いて、そういう意味かと頭で分かっても「悟る」と訳された言葉、つまり「自分の事として理解する」ことにはならない。譬えの目的は、話の何と何が重なっているかが、それだ!と心で自分の事として理解したら、その理解によって実際に生きることだからです。だから、これは私のことだ、あるいは、これは私の友、私の家族、私の隣人のことだと、心で、自分の事として心配する聴き方を求めて、主は語られます。クリスマスに神様が人として生まれて来られた目的、全ての人の救いを心配して、この「譬えを聴きなさい」と言われます。

冒頭で「だから」と弟子たちに言われるのも、その神様のお気持ちを、弟子たちは心で知る恵みが与えられている(11節)。だからです。神様を我らの父として未だ知らない、父と関係が破れて生きている一人一人が、父のもとに帰って来ることができるように。その人の心の状態を、心で自分の事として悟って、心を配って欲しい。そして、天の父のお気持ちを心で知っている生き方と態度によって、皆に見せて欲しい、聴かせて欲しい。父との関係の内に生き、父の求めが実る、父のご支配の幸いを。そうして御言葉が何十倍もの実を結ぶ喜びを!それが御子をくださった父の「御国」、つまり救いのご支配だからです。

「御国の言葉を聴いて」の「御国」は、父の救いの「ご支配」です。つまり、天の父が御子を十字架で与えられてでも、私たちを家族として求められる父のお気持ちが実現するために、救いの御言葉が「の中に蒔かれ」ます。そのの状態が問われるのです。私たちが心で何を求め、どんな生き方を求めているか。私たちの求めは、父の求めと重なるか?それとも心、求めが、バラバラなのか?御国は、父と私たちとの家族の信頼関係ですから、その家族の気持ちが、重なるかバラバラかで、関係は左右される。良くわかる話だと思うのです。我が子よと、信頼関係の言葉が蒔かれても、その関係が実らない心を、主は三つ譬えられます。

道端に蒔かれた種とは、御言葉を聞くが、神様が私に信頼関係を求めておられることが分からない。でもそれ以上に!この話が、自分と関係ない話に思える。関係ないと思うなら、御言葉は心に残りません。

次に石だらけの所とは、御言葉の何らかの印象が心に残って、これは自分と関係ある話だと思って聞く。でも父との関係の話ではない。父と共有する関係の喜び家族関係のための話ではなくて、自分が得をする自分の話として誤解したら、心で、ためになる話だと感じても、自分のため。神様との関係がない。7章で主が言われた、主よ主よと言うけど、家族の信頼関係の愛が、わたしたちの間にあったか、自分の事だけではなかったかと、主から問われるのと同じです(7:21ff)。

御言葉を聞いて、心で自分の事とは思う。でも自分の事だけで、心の土と、父の求めである御言葉との関係を一つに結ぶ信頼関係の根がない。根が入って行かないほど固い土、頑なな自分自分の世界観で構成された、人生とは何か、神を信じるとはどういうことかという理解はあるのです。その自分の世界観や宗教観に、聖書の神は私の父、という理解も言わば自分の世界観の!パズルの一部として地表にカチャと当てはめもする。

でもその固い自分自分が砕かれて、ごめんなさい、あなたの気持ちを受け入れます、イエス様を受け入れますと、自分を捨てて父との関係を求める心に、父の救いのご支配は根付いて、分かるのです。信頼関係が信仰だと。自分が信じることではないのだと。心が、自分の得ではなく、父のお気持ち、父の愛のご支配、御心を求める心へと変えられていく。

茨の譬えも、もうお分かりと思います。やはり関係が育たない。父と共に喜ぶ関係の実を結ばんのです。自分の実を結ぼう、結ばな損する、自分の幸せを失うのではないか、生まれてきたのは自分が幸せになるためとさえ思って自分を心配し不安になる。自分を失う怖れや不安に心が覆われ支配されてしまう。そしたら自分を失ってでも相手と共に生きる、愛と信頼の実を結ぶ関係は育たない。天に向かわないで、内側の方向に、命が生き方が自分に自分にグルグル内側に自分に自分に向いて伸びて、からまって行き詰まり、父の求めが実を結ばない。何のための救いかが、分かっているのに分からなくなる、行き詰まりを迎えてしまう。

その行き詰まりをクリスマスの御子は引き受けて死んで行き詰まりに来て下さったのです。あなたはこんなことのために生まれたのではない、死んで行き詰まるしかない自分の方向を捨てて、復活の命に、死んでも死なない信頼と希望と愛の父の家族として、共に生きよう、わたしが主、あなたの神だからと、御子が救いの手を差し伸べて下さっているのです。

その救いの言葉を受け入れる心を、主が自由にして下さいます。行き詰まる心から、父の求めを求める心良い心へと。父と一緒に喜ぶ家族の実を何倍も結ぶ心へと。そのために来られた御子の救いが実るのです。