24/12/24クリスマス・イヴ礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書2章1-7節
「飼い葉桶を選ばれた主」
「彼らの泊まる場所がなかったから」と訳された言葉。もとの言葉は「彼らへの場所がなかったから」。宿屋ですから、もう宿泊のスペースがないがですと、あるいは実際に言われたのかもしれませんけど、マリアもヨセフも、いえ宿泊はかまいませんから、初めての子を出産する場所を何とかご用意いただけませんでしょうかと、頼みこんだと思います。
でも、その「彼らへの場所はなかった」。だから、外で出産したのかもしれません。家畜が餌を食べる飼い葉桶も、それを使うがはかまんけど、でもそれ以上は関われない、うちも他のお客さんの世話が、と、きっと何か言える理由はあったのだと思います。
今の時代でも、陣痛が始まった妊婦さんを受け入れる病院がなくて、救急車で何時間も待機しては走ってという話を、痛みを持って聴きます。本当に場所がないのだろうかと思ってしまうのです。入院されている方々に、急にすみませんが、こういう理由があってと頭を下げ回ったら何とかならないのだろうか。その何とかでかまいません、お願いしますと、私たちが、その当人なら必死で頼むのではないでしょうか。
20年前、長男がお腹におった時だったと思います。妻のお腹にですが(笑)。雨が何日も降り続く寒い日に、ピンポンが鳴って、すみませんが一晩泊めて下さい、そこの土佐大津駅にいたけど、いられなくなってと言われる男性がいた。真っ先に思ったのは、妻が身重で、という言い訳でした。でも単に場所で良いのなら、ここに、こんなにもあるのです。お客さん用の布団もある。広いほうのトイレには泊まる方用のシャワーまである。妻が、良いよと言った後は、断る理由は、自分の中にある、でも、と勝手に予測する不安要素だけでした。しばらくお泊めしました。市役所で手続きして、アパートも仕事先も決まって、その近くの教会の牧師にも連絡して、良かったと思っていましたが、しばらくして突然、失踪してしまいました。それから何年か経って、玄関の前に立っていて、もう行く場所がなくなって、あの時は給料を賭け事で使ってしまってと、理由を話してくださいました。
人間にとって場所とは、単に、いる場所、寝る場所とか生活費を稼ぐ場所のことではないことを学ばされました。そういう場所なら用意した。でも私は、この人の隣人になっていただろうかと。
聖書を読んだことのない方でも、神は愛ですという言葉は聴いたことがあるかもしれません。マザーテレサのような方から、聖書は愛を教えると学ばれた方もおられると思います。その教えをギュッとまとめたら、これだと言われる御言葉があります。「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)。考えて欲しいのです。私の隣りにいてくれる人、また私がその人の隣りにいることを選ぶ人は?と。そしたら隣りとは、単なる場所ではないことがわかる。その人と私との間に、優しさ、愛情、お互いの信頼に生きようとする間柄、関係がある、それが「場所」だと。
失踪された方の、隣人になりたいと思いました。でも結局また連絡が取れなくなってしまい、今も痛みを覚えます。このクリスマスの御言葉を、この礼拝のため準備しながら、その痛みを思い出し、今更のように、飼い葉桶の御子の前にひざまずいて、ごめんなさい、罪をお赦し下さい、どうか私たちをお救い下さいと、祈りへと導かれます。
その私たちのために、だから、飼い葉桶に生まれて来て下さった神様だからです。場所なしに生きられないのに、愛し愛される場所が必要だと分かっていて、学ばされてきて、それでも隣人として生き損ね、愛し損ねる。いったい私は誰として、誰の隣りで生きて、愛し愛されるため生まれて来たのか。自分の命の場所を見失ってしまうこの暗い世界に、神様が光あれ!と言われて始まったはずの世界に、神様は再び光あれ!と、もう今度は二度と消えることのない、決して消させない赦しの光として、私たちの暗闇を背負い償い赦す救い主として来て下さった。
それがすべての人の身代わりとして、すべての人を背負い償うために、人となられた神様、イエス・キリストによる救いだからです。その暗い場所は、わたしが引き受けるから、あなたは、あなたのためにわたしが用意した場所で、共に生きよう、死んでも共に神の家族としてわたしの隣りで復活して共に生きるため、わたしは来たからと、飼い葉桶の主が約束して下さっているからです。十字架を前に主が約束して下さった、この御言葉をお聴きください「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1ff)。
だから信じて良い。消えない赦しの光のもとに、人は神様に愛されて受け入れられて歩めると。それがクリスマスを共に喜ぶ理由だからです。