24/12/22降誕祭主日礼拝説教@高知東教会
イザヤ書9章1-6節、ヨハネの黙示録7章9-17節
「闇に勝たれるキリスト」
いま共に聴きましたイザヤ書9章の御言葉は、クリスマス・イヴ礼拝で最初に聴く神様の約束の言葉です。神様が、わたしとあなたたちの間にある、またあなたたちの間にある、敵対関係の溝に、救い主を与える。そして敵対の関係は終わらせると、戦争終結のイメージで、救いの到来を約束してくださった御言葉です。
この戦争を終わらせる。そのために三位一体の父・子・聖霊の神様が、御子を人として、私たち全ての人間の償いとして与えられ、もう償いは終わったから、敵対関係に生きるのは終わりにしようと招かれている。それがクリスマスの一つのイメージとして、よくツリーのオーナメントにもなっている平和の鐘、戦争終結を知らせて、ゴーンゴーンゴーンと全ての人に聴こえるよう鳴り響く、平和の鐘のイメージです。
その鐘の音を聴きながら人々が、良かった、本当に良かった、こんな生き方は本当はしたくなかった、終わって本当に良かったと、軍服や、あるいは自分が隣人に向けていた銃、言葉のナイフ、とがった心や態度を、本当はこんなもんいらんかった、欲しくなかった、もういらんと、火に投げ込んで焼き捨てている。その中に、私たちも自分が銃を捨てている姿を見て良い。これがあなたがたを滅びから救う、赦しの幻だから、これが本当にあなたがたに起こるからと約束されるのです。
その際にイザヤが告げるのは、その戦争終結のため与えられた御子の、大切な意味を持つ呼び名です。
その筆頭が「驚くべき指導者」。ヘンデルのメサイアではワンダフル・カウンセラー。助言者、相談役とも言えますが、むしろカウンセラーが今の時代は通じやすいかもしれません。人間関係、特に敵対する関係に悩む人が、どうしたら平和になりますか?とカウンセリングで尋ねる。救い主が、そうですねと、わたしなら、相手を赦すために自分を捨てるところから始めます、と相談に応えられる。そんな神だから嫌なんだと拒む私たち人間を赦し受け入れ、平和に生きよう、わたしは、あなたと平和に生きたい、平和が欲しいと、そのためにご自分を捨てに来られたクリスマスの御子を、人は「平和の君」と呼ぶのです。
「驚くべき指導をするカウンセラー」です。人は、平和は欲しいけど、自分は捨てたくないから、驚いてしまうのでしょう。何で私が自分を?と闇に覆われてしまう。あるいは人には、自分を捨てたら上手くいくと助言さえできるのに、自分のことになると闇に覆われ、嫌だという闇が銃を握り締めて、戦争になってしまう。赦したくないという闇。相手を赦すことも自分が赦されることさえ拒みたい。人のせいにしたい。この嫌なことはぜんぶ神様のせいだとさえ思いたい暴力的な闇の中をなんて、本当は誰も歩みたくないのに歩んでしまう、死の陰の地に住むすべての人の上に、だからクリスマスの救いの光を神様は輝かせられて言われるのです。そのあなたがたのために、一人のみどり児が生まれた。一人の男の子を、すべての人の償いとして与えたから、その闇を、御子に相談しなさい。そしてその驚きの相談役が、闇も罪も死も、わたしが背負うから、わたしのせいにして良いから、わたしが神様から呪われて見棄てられ、裁かれて、知らんと言われて、あなたの代わりに死んで良いから、だからあなたの闇を、この光の中に投げ込んで、もう終わりにしよう。わたしのせいでいい。わたしを責めていい。あなたの背負っている闇も苦しみも誰のものにして良いのか分からない責任も、わたしに負わせて、もう終わりにしよう。そのために、わたしは来たからと、十字架の王、平和の君が、驚くべき指導者として、わたしのもとに来なさいと、光の中に救い入れて下さる。それが神様の御子による赦しだからです。
誰かのせいにしては自分を捨てられない人間の闇に対して、それでも、いや、それだからこそ、愛し赦して、代わりに償って永遠に家族として共に生きると、私たち人間の闇に神様が勝たれる。それが「力ある神様」、私たち罪人の「永遠の父」、ご自分を捨てられる愛の力で、私たちを救い支える「平和の君」なる主イエス・キリストの神様だからです。
クリスマスに戦争を終わらせるために生まれた平和の君。その肩に、罪の争い、敵対関係を終わらせる権威がある。自分を捨ててでも平和を求める権威、赦す権威、愛する権威が、その肩にある。私たちの肩には重過ぎて、赦いたちどうせと重荷になるから。だから赦したくない闇の中で、平和の君が、わたしのせいにして赦せばよい、わたしのせいだ、それでもあなたに平和に生きて欲しいのはと、闇を終わらせる光として、神様の権威によって救って下さる。だから愛したくないと思う闇の中で、信じて良い。その闇は終わる。戦いは終わる。終わらせて下さる御子が共におられて、消えない赦しの光の中に、共に歩んで下さるからと。
だから闇の中を歩む民に御子を与えられた赦しの光のもとで、自分を差し出し、どんな壊れた関係も差し出して、その肩に背負ってもらえばよい。十字架の神様の熱心が、これを成し遂げてくださいます。