マタイによる福音書13章10-17節、イザヤ書6章「キリストのもとで聴く」

24/12/15待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書13章10-17節、イザヤ書6章

「キリストのもとで聴く」

クリスマスの御子は、父との壊れた関係、破れた信頼関係の癒し方を、ここで教えられます。ただそれを「心で理解する」ために、敢えて逆に、関係が癒されない、悲しい手順を、イザヤの預言から引用されるのです。どうしたら壊れた関係が癒されないか。関係の壊れた相手の言うことを、聞いても聴かなければ、つまり心で理解せず、自分の事としては考えず、相手の気持ちを見ようとはせず、そこで本来なら回復すべき信頼関係に、戻って来ることがないなら、関係は壊れたまま、癒されない。

15節の「こうして」以下を直訳すると、神様の切ない気持ちが、より伝わりよいのではないかと思います。「こうして彼らは目で見ることも、耳で聴くことも、心で理解することも、戻って来ることも、そして彼らをわたしが癒すことも、ない」。でもだから戻って欲しい。癒す、破れた関係を癒すのに、どうしたら戻って来てくれるのか。聴いて、わかってくれるのかと悩まれる天の父の気持ちを、聴いていた弟子たちは、どれだけ理解したでしょうか。少しは自分の事として心でわかったのでは?と想像します。私たちもそうかも知れません。自分の事として!わかる。神様と私の関係の話なのだと。父の私へのお気持ちの話だと「自分の事としてわかる」というのが、ここで「理解する」と訳された言葉の意味だからです。頭でわかっても、心で父の気持ちがわからんと、心が鈍い、父のお気持ちに対して無感覚、ということになる。違うでしょうか。

だからその私たちを放っておけないで、自己責任にする神様ではないから!クリスマスに人となられて来て下さった御子を、信頼するのです。そしたら信頼関係が回復、あるいは傷と同じで次第に癒されていく中で、御子を十字架で死なせてでも私たちに戻ってきてほしい父のお気持ちが、わかる。我が子の心を求められる、天の父の秘密が、わかるのです。

「天の国の秘密」つまり御子を与えられたほどに世を愛される「天の父の救いのご支配の奥義」を知る。父よと御子と共に呼んで本当に父よと信頼して洗礼を受け、父の家族となった子たちは、秘密を知ることが「許されている」直訳は「与えられている」。だから12節「持っている人は更に与えられて」。つまり救いの秘密とは、父との関係の回復だと!本当に我らの父!私の父なのだ!と父を知ったら、つまり何かするから家族になるとかじゃない!父子の関係は、恵みと憐れみの信頼関係だと、父と御子を知ることが与えられたら、聖書の御言葉の意味が、どんどん与えられ豊かになる。言わばヘレン・ケラーにとって水の触感とWATERという文字に何の関係があるのか?と与えられていなかったのが、あ!と与えられたら、次々と他の関係も繋がって与えられたようにです。

でも私たちを創られた天の父と私の関係が、心で繋がらないと、いや、けんど自分の信仰の力で救われるがやろう、イエス様やのうて信仰心が人を救うがやろうと、自分自分で父との信頼と愛の関係を持ってないと、わかったつもりで持っている知識も取り上げられ、ん?と、わからない。その知識を持っているがばっかりに!父との関係を語る御言葉が、全くヘチゴトになるから。だから遠回しの譬えを話されるのです。罪も赦しも誤解したままにならんために。神様も救いも、自分は理解して、ないということが、わかるために!神様との関係の破れが癒されるためには、どうすればよいのか?わからず屋の自分自分の罪人で、関係を破く私を、だから天の父は憐れみ赦して救うために、私たちの罪を償う犠牲を最初から備えて下さっていた神様だと知る。わたしのもとに戻って来なさい、わたしは主、あなたの神だと、恵みと憐れみの関係の内に、ずっと私を呼び続けて下さっている、天にまします我らの父、私の父だと信頼して戻る。そこに神様との関係の癒しがある。そして人間関係の破れ、心の破れ、生き方の破れも、父の恵みと信頼関係の中で、癒されるのです。

気分的に癒されるという自分の中の話でなく、関係の癒しが与えられるための御言葉ですから、ドアが自分自分で閉じていると、わからなくなる。例えば私と妻の関係が、私の罪によって気まずくなった時、先生、そんなが気にしなや、皆やりゆうことやきと言われても、あるいは私の気分が、じゃあ気にすることないかと勝手に気分が癒されることもあるのかもしれない。が、それで妻との関係の破れそのものが癒されるのか。そんな癒しを、世界は本当に望んでいるのか。傷ついた関係を癒すのは、私が自分自分で傷つけた妻から、もうあんなこと言わんとってね、私はあなたの妻やきね、さあご飯一緒に食べようという赦しの言葉でしょう。そしたら私もきっと、ごめんねと、自分を放棄して癒される心を、恵みによって持つことができる。そうやって私たちを救われるクリスマスの御子をマタイは、こう呼んだのです。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である」(1:22f)。

この恵みの神様との関係の中に、皆!本当に招かれているのです。