24/12/8待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書13章1-9節、創世記15章1-6節
「それでも種を蒔く神様」
受け入れてもらえない報われない愛を蒔き続けるのは辛いものです。
それでも郵便受けに、かわら版を入れるだけなら、少し不審がられるだけならと、祈りながら、少しでも気持ちが届いて欲しいと求めながら野球部のグラウンド儀式のように、家の敷地に入る時と出る時に礼して、福音の種を、教会員に渡す種も含めて毎月200粒、手分けして蒔きます。
クリスマス・リース教室でも御言葉入りのカードと、初めての方には、まさに聖書をお渡しして、種が少しでも育つようにお仕えし、礼拝中に倒れるぐらい自分を献げて。でもリース教室もかわら版も、それで人が、この神様を知りたいと求めるようになられるかの結果は、中々見えない。
無論それは私たちにとっても他人事ではありません。弟子のペトロは、神様のことを思わず人間のことを思っていると、後で主に叱られます。
クリスマスに、ご自分を永遠の命の種として蒔きに来られた神様こそ、報われません。でも無駄にならない伝道や奉仕を、神様はなされない。
譬えを聴いた人たちも、ええ、もったいないと思ったのじゃないか。たくさん無駄になる、おかしな種蒔き人の譬えです。現実の、あるいは現実的な農夫は無論、種が地中に根付くよう、畑を耕して蒔くからです。だから、ん?この譬えのその心は?意味は?と求めさせる話なのです。
そこで主は最後にこう言われます「耳のある者は聴きなさい」。これも非現実的に思わんでしょうか。耳あるけど、聴いてないってこと?と。
私はよく人の話を聴いてなくて怒られたので、聴いているつもりで、聴いてないこと、あるなと思うのです。でも種蒔きの話は、変な話やと思いながらも聴いてはいるので、実際に聴いてないということではない。
むしろ譬えを譬えると妻が私にクリスマス・プレゼントを求めていて、でもそれを敢えて遠回しに話したら。何故?そんな遠回しに言うのか。つまり私が自発的に、そうか、じゃあ何かプレゼントしたら喜ぶろうと、自発的に求めて欲しくて!妻の気持ちを考えて欲しくて!喜ばせたいと私から求める関係を欲して!敢えて言うのではないか。
自分が損をして死んでも、私たちと家族の関係を求められる神様は、私たちが上から言われたから、はいはいと従うのではない、信頼関係を求められる関係の神様、三位一体の、その名を愛と呼ばれる神様です。
だからイエス様は、全ての人に!神様のお気持ちをわかって欲しくて、その人の心が神様を求めているかどうかに関わらず、全ての人に神様が、どういう方か、何を私たちに求めておられるか、知って欲しくて、その神様を信頼して欲しくて、創り主の愛から離れた命の在り方と行き先を、悔い改めて帰ってきて欲しくて、全ての人に救いの種を蒔かれる!
でもそうなると、聴いてくれないということが、実際に起こるのです。神様に対する、その人その人の心の実際が露わにされてしまう。それがこの譬えです。神様に対する関心・心・求めの状態が四つ語られますが、問われているのは、その心が神様を神様として求めているか、それとも神様より他の何かを求めているか。その一点です。先の私と妻の関係で言えば、私の心が、妻を私の妻として求めているか。それとも妻だけに許される特別な場所に他の何かや誰かを求めて、関係が奪われてないか。もし別の何かを求めていたら、遠回しな話をされても、何の話?と全然わからんかったり。遠回しに話をしているなとはわかっても、そこで妻の気持ちを思わず自分の気持ちだけ思って、何で直接に言わん?と嫌な気持ちになったり。妻の気持ちもわかって、プレゼントして欲しいがやとわかったのに、自分はそれにお金を使うのは、もったいない、そんな使い方よりと自分の思いを優先して自分にこだわるなら、妻の気持ちが自分の頭でわかっただけで、家族という実を結ぶ家族関係で!わかったと言えるだろうか。それが天の父の御言葉を聴く救いの関係なのです。
その関係を、常に先ず!神様が求めておられる。それが、すぐ前50節で主が言われた「誰でも、わたしの天の父の御心(つまり父の求め)を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」という救いの言葉です。改めて申しますが、父の求めは、父として!ご自分の子供たち家族との愛の信頼関係に一緒に暮らし生きること。それがそもそも父・子・聖霊の、三人なのに一体であられる三位一体の神様が、私たちを家族として求められ、神の形にお創りになられ、父なら当然に求める愛と信頼関係の喜びに一緒に生きるという父の正義の求めです。それが神様の義なる救いの御心です。その父の関係の御心が、関係中心でなく自分が中心の世界に生きていたら、愛も救いも神様も、自分の中だけの話に聞こえて、関係の神様の話をされても、何の話かわからない。わかっても何で神様に自分を捧げないかんと思ってしまう、愛に不相応な罪ある私たちを、だからこそ、その罪とその行き先から救われて欲しいと、わたしの父が求めておられるからと主が求められます。父の求めはわたしの求めだと、御子が父のため、私たちのため、家族の救い、我らの喜びのために罪を償いに来て下さった。そのクリスマスの御子を皆で受け入れたいのです。