24/12/1待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書12章46-50節、詩編122篇
「主が宣言される聖家族」
母マリアはどんな思いで息子たちと「外に」立っていたのでしょう。歴史上唯一人、処女懐胎の恵みを受けた人。イエス様は聖霊様によって宿られた、人として来られた神の子だと、身をもって知っている人です。
そのイエス様が、当時の言わば宗教的支配者クラスのファリサイ派・律法学者たちに対して、あなたたちは悔改めないと救われない、わたしのもとに来なさいと繰返し招いた。が、誰が悔い改める?お前は悪霊に取りつかれていると、イエス様を殺す相談さえするのです(12:14)。
その状況が母と兄弟たちに伝わった。彼らがいた会堂で脅し文句でも言われたのかもしれません。こら、へんしも連れ戻さなと。「話したいことがあって」と訳されましたが「話すことを熱望して」という言葉です。
マリアは板挟みの気持ちだったのじゃないか。息子たちにイエス様のことを説明もしたと思うのです。でも兄弟らは、そうやとしても、このやり方が神様の救いの道とは信じられない。人前で身の狭い思いもして、嫌な気持ちが強くて、イエス様を信じきれない。もっと、やり方がないかえ?と言いたい。その気持ちは、よくわかるのではないでしょうか。
三浦綾子さんの小説にもある、細川ガラシャが、キリシタンの洗礼を受けた当時は、キリシタン禁制でした。その夫、戦国武将、細川忠興は、どうして家のことを考えないのかと、それでも信仰を捨てない妻に対し強く迫った。でもガラシャは、これだけはどうしても譲らなかった。
私たちも家族や周りの人から、特に日本ではコロナ初期の同調圧力のような扱いを受けることがあるかもしれません。心の中だけで信じやと言われたこと、ないでしょうか。つまり宗教は自分の気持ちの問題だと。神様のお気持ちを本気で思い大事にする信頼関係としての信仰は、相手にされない。だって、わからんろうと実感する他ないからでしょうか。
宗教熱心だったファリサイ派の人たちも、自分の正しさには熱心でも、聖書で証しされる神様のお気持ちがわかってないと、特にその憐れみのお気持ちが、とイエス様に指摘されたら、殺意に至るほど腹を立てて、今日の御言葉では場面の外にさえ消えてしまい、群衆だけ残るのです。
その群衆にイエス様は語り続けられます。ファリサイ派だけじゃなく、ではあなたは、わたしのもとに来ますかと。外に立っている母兄弟にも。外ではなく、こっちに!と、神様との信頼関係の中に招かれるのです。
自分よりもイエス様を信頼し、外ではなくて、中に入った弟子たちに、主が手を伸ばし「わたしの天の父の御心を行なう人が」と言われた言葉。これは既に7章で「主よ主よ、と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの父の御心を行う者だけが入る」と、だから父のお気持ちに一緒に生きようと招かれた同じ言葉です。外から主よと言うても、入れない。自分がどう信じるかの宗教は、神様との関係の外で信じているからです。
この前後は神様の正義の裁きと救いのテーマが、ずっと続いています。すぐ前45節で言えば「後の」最後の審判での自分の人生の裁きについて、自分の気持ちの中でのみ綺麗に片付いているだけなら、神様の裁きの中に立つ日、自分には救い主との関係がなかったと。そしたら、あなたはわたしとどんな関係に生きたかと問われても答えられないのではないか。
では何で救い主の場所がないのか。それよりも心の中に場所を占める、気がかりなことがあるからではないか。それがこの後の種蒔きの譬えで展開されていきます。例えば左頁上22節で「御言葉を聴くが、世の思い煩い」が思いを占領して御言葉を覆いふさいでしまう。皆と同じにしてないと人から何と言われるろう、家とかお金とか自分の夢とか…。では、神様から何と言われるかは、気にならないのか。神様のことは片付いてしまっているのか。そしたらもっと悪くなってしまうと主は心乱されて、だから聴いて欲しい、神様のお気持ちを、その救いをと、嫌われても、だからこそ!その人々への愛を、十字架の償いに向け強くされるのです。
そのクリスマスの救い主が、ひょっとそこで母マリアが聴いているのを感じつつ、きっとわかってくれると。罪の世に、人として来られた時、その胎に身を委ねた御子が、きっとまた父のお気持ちに従ってくれると、父なる神様を仰ぎつつ委ねつつ「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。誰でも、わたしの天の父の御心を行なう人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われた。板挟みのマリアに向かっても、信じきれない兄弟たちにも、私たちにも、神様の救いの中に入ってくることにためらう全ての人に向かって、ここに天の父の救いの御心を行う道がある。わたしのもとに来なさい。わたしが主、あなたの神だから、あなたにはわたしをおいて他に神はない。十字架であなたを受け入れて赦して救う神は他にない。ここに来なさい。誰でも来なさいと、全ての人の償いとして来られた三位一体の御子が、全ての罪、重荷、思い煩いをも背負われて、あなたの家族となるために来た、わたしを受け入れて共に歩もう。それが、あなたを我が子として熱望してやまない父の御心だからと手を伸ばされる。その御心の中に全てお委ねして歩めるのです。