24/11/24主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書12章43-45節、詩編78篇5-11節
「神様が住まわれる家を」
「この悪い時代の者たち」と言われ、え、どの?と、つい言い逃れを探したくならない時代があるのかと、我が身を振り返りつつ思います。
ほぼ同じ言葉を主は、上段38節の三行目で言われました。直訳しますと「悪い姦淫の時代は、しるしを欲しがる」。姦淫。つまりイスラエルは神様と、言わば結婚と同じ、一つに生きる契約関係で結ばれていたのに。約束通り赦しによる救いを与えに人となられた神の子イエス様に、いや、そんながは救いじゃない、自分の正しさを信じて自己責任で自分を救う、この自分を認めてくれるがが神やかと。まるでサタンがアダムとエバに、それを食べたら目が開け、神のようになるとそそのかしたように、自分を神として姦淫を犯し、イエス様に、救い主のしるしと見せろと迫る。
だからイエス様は「悪い姦淫の時代はしるしを欲しがる。でも預言者ヨナのしるしのほかに、しるしは与えられない」と、そんな私たちの罪を、だから三日三晩、背負い切って身代わりに死にに来られた十字架の神様のしるしを、まっすぐ見つめればよいと、赦しに招かれるのです。
そして十字架で背負われた姦淫の「悪さ」を悪霊の悪さに譬えられて、何とかわかってほしいと、主は今日の御言葉で求められておられます。
イエス様が来られて、人々から汚れた霊を追い出しておられる。その霊が、でも「自分より悪い」霊を連れて来て住み着く。この「悪い」が、神様との関係を汚す姦淫の悪さと同じ悪さです。だから例えばイエス様を愛さないで済む言い逃れが、他に七つ増えるようなもんでしょうか。それらが関係をどんどん悪化させ、心の距離が更に遠のいていく状態。
「そうなると」とイエス様は続けられます「後の状態は前よりも悪くなる」。この「悪くなる」は、姦淫の悪さとは別の言葉で、例えば天気が悪いとか、気持ちが悪い時に使う「悪さ」です。姦淫の悪は善悪の悪、関係を壊し、愛を壊し、命を汚し、人生を破壊する悪。その悪を心良く受け入れる人はいない。神様も、悪は心良く受け入れない。関係が、嫌な、受け入れられない、拒むという状態になる。それは三位一体の神様が世界を創られた時、良い!心良い!と世界を祝福された、それと正反対の方向、つまり神様と共に生きる良さから離れた、切り離された状態。その状態を主は十字架で負われつつ、それは「悪い」と言われるのです。
「後の状態」の「後」は、後の日、最後の審判に用いられる言葉です。自分の正しさを信じて、自分は自分で救う、憐れみは必要ない、まして赦しなど必要ないと、そういう自分だから破いてしまった関係、汚れを、もし見ないことにするのでなかったら、とうてい返済しきれない負債を、だからわたしが背負う、わたしは主、あなたを見捨てない神だからと、主は十字架で代わりにご自分を棄てに来られた。その憐れみを拒むなら、あなたは今の自分の状態を選ぶだけでなく、自分の最後の状態も選択することになるが、それで良いのか。それは悪いのではないか。そっちのほうが赦しを受け入れるのに比べたら、まだ悪くないのか。悪いだろう、そんな終わり方で良いはずがないだろうと命がけで説得されるのです。
すぐ右隣りの御言葉の続きで言えば、ここに!ここに!と、救い主が、もう来られていることが強調されて、だから、ここに!わたしのもとに来て、わたしを受け入れてほしいと招かれる。でないと悪霊たちが住み着きやすい状態にさえなってしまう。そういう話までされるのです。
「休む場所」という言葉は、主が「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれた(11:28)。その同じ言葉で「休む」場所と言われます。でもイエス様がいる場所で、悪霊は休めない。だからイエス様から距離を取っていて、嫌だと拒んで、拒絶している場所なら、休める。でも、もし心変わりをしてキリストが必要だとか言い出すと困るから、もっと悪い悪霊を連れ込んで、自分が住み心地の良い場所にして、自分を守ろう。自分を自分をと。
それだけで十分悪いのに、イエス様がおっしゃるのは、今だけが問題ではなく、終わりの日、今より悪い結果を迎えることになることが何故、問題にならないのだろうか。裁きの問題が、掃除され片づけられているのではないと望むが、ならば、どう片づけるつもりかと問われるのです。
裁きの問題を片付けるために、十字架の神様は人となられたからです。それがクリスマス。私たちを罪の裁きと死の問題から、完全に休ませて救うために、ここに!神様が来てくださった。赦しと新しい命の祝い。それがクリスマスの良き知らせだからです。
背負われ、愛され、完全に受け入れられて、全く新しい神の子の命に歩みだす祝福が、ここに!もう与えられているから、キリストが一緒に歩んで下さっているから、その祝福を受け入れるのです。もし悪霊が「我が家に戻ろう」と言っても、私はお前の家なんかじゃないと、私はキリストの住まわれる聖なる宮だからと、洗礼の恵みに、赦されて神様と共に生きる祝福に生きるのです。どんなことがあっても主が私たちと共に生きておられるから、その憐れみに魂を休めてよいのです。