マタイによる福音書18章1-5節、イザヤ書57章14-15節「父の心が注がれる低さ」

24/11/10幼児祝福礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書18章1-5節、イザヤ書57章14-15節

「父の心が注がれる低さ」

【こどもせっきょう】

カファルナウムという町にダイちゃんという男の子がいました。ダイちゃんは体が大きかったので、近所の年上の子たちから、何か大きくて生意気だなと肩を押されたりして。ダイちゃんは、もっと大きくなって大人になったら、何かこんなことしてくれましたねって上から見返してやるって、うつむいて考えていました。そんなダイちゃんをお母さんは心配して、いつもお祈りしていました。

その頃、旅に出ていたイエス様とお弟子さんたちが町に帰ってきました。ダイちゃんのお母さんは、よくイエス様たちのお世話をしてたので、ダイちゃん、イエス様のとこ行くよって連れてってくれました。そこにはダイちゃんより小さな子たちも連れられて来てたので、ダイちゃんは、皆、俺の言うこと聞くがぞ。ハーイって一緒に遊んでました。

そしたら。ダイちゃ~んって誰か呼んでます。見たら、イエス様が!ダイちゃ~ん、ちょっとこっち来て、わたしのお手伝いしてくれん?て笑って、おいでってしています。え、イエス様って、たくさん病気の人を癒したり、神様のお話を遠くからもたくさん聴きに来て、お母さんが、イエス様は神様のとこから来た救い主ながでって言いよった。その偉い、すごいイエス様が、僕にお手伝いさせてくれるが?って、ダイちゃんは走って、座っているイエス様のところに行きました。すると、イエス様の周りを、大きなヒゲもじゃのおじさんたちが何人も立って囲んでいて、で、天国ではどんな人が偉くて大きくてすごいがです?大きな大人たちに囲まれ、ダイちゃんは怖くなって心が小さくなって泣きそうになって。そしたらイエス様がダイちゃんの頭にそっと手を置いて、ニコっと笑って言いました。この小さな子供のように、天の国では自分を低くする人が一番大きい!そう言ってイエス様はダイちゃんを抱き上げて、スッと立ち上がって、ダイちゃんを、す~ごい高い高いして、ほら、誰よりも大きい!一番大きい!ってメチャメチャ笑って言うから、ダイちゃんも小さな子供みたいにキャッキャッて笑って。そしたらお弟子さんたちも、やっぱりそうでねえって笑い顔になって。それが私たちを救ってくれる神様やもねって、私たちを赦すために、こうして人となって来てくれた神様の大きな笑顔を、皆で見つめて感謝しました。

【説教】

ダイちゃんの名前、12弟子の一人と同じ名前、タダイのあだ名ということにしちょいて下さい(笑)。まあ、ただの創作裏話ですけれど(笑)、実際には、大きいという漢字での大ちゃんを、聞いて思い浮かべやすいかなと思ってダイちゃんと名付けました。それがこの御言葉で「偉い」と訳された言葉、偉大な、大きいという言葉だからです。

ただ、弟子たちが言った、誰が一番偉いかという、人と比べて自分や人の偉さを計算する、そんな人間関係での「偉大さ」は神様には当てはまりません。でも、同じ偉大さが天国でも通用する、神様も同じように考えるろうと、つい、誤解しやすい。だからイエス様は、そんな偉大さでは「決して天の国に入ることはできない」。神様も神様の救いも、そういう、人より偉くなるという価値観で見たら、何ちゃあわからんなるき。その態度、人の見方、神様の見方を「入れ替えて」こう考えなさいと。そしたら神様も、その神様に造られた私たち人間の本当の生き方、本当の幸せも、見えるようになると、招かれるのです。

それが4節です「自分を低くして、この子供のようになる人が天の国で最も偉大だ」。「最も偉大だ」と言っても、俺の方が上という人間関係の態度ではない。ダイちゃんがイエス様に高い高いしてもらい嬉しかった神様との関係なのです。自分が偉いからじゃなく、まして人と比べて、私の方が偉いろうと、言わば負けた人の、低くされた気持ちを考えない勝ち負けの上下関係で、神様が褒めてくれるわけではない。そんな関係を天国に求める神なら、生まれた時から格差があって低い人に、もっと頑張れと上から言うようなこの世界、こんな人間関係を終わらせることができない人間と、何が違うのか。こんな世界で、頑張って偉くなって上から自分の人生を勝ち取らないかんと、思いたくなくても思わされて、無意識で上下関係、力関係を作って、ずるい大人の真似をしてしまう。そんな大人たちに囲まれて泣きそうになっているダイちゃんをイエス様は、そのままに十字架の愛で抱き上げられるのです。その低さも弱さも、泣きたくなる小ささも、心の貧しさも、ぜんぶ受け入れて、わたしは、あなたがあなただという決して替えがきかない、あなたという価値それだけで愛している。あなたは愛されるために神様に求められて生まれてきた神様の子供だから、それが、あなただからと。十字架の救いの神様が、あなたの価値は、こんなにも高い!と抱き上げてくださる。

そのように、です。子供であろうと、大人であろうと、神様によって命を与えられた、そしてその人を救うために神様が十字架で罪を償って、命を投げだして下さった、すべての人を、人というだけで、その価値を受け入れるのです。その人の低さ、受け入れられない嫌だと思うところを考え始めたら、いくらでも出てくる。私たち自身そうでしょう。そのすべての人を、この人は、愛されるために生まれて来た、神様に愛されている人だからと、受け入れる人を、イエス様は、そうだ、良かった、それがこの人だ。この人を受け入れてくれたあなたは、わたしを受け入れたのだ。この人は、わたしだと、その人のために命を捨てに来て下さった神様が言われるのです。

子供に限りませんが、ちゃんとできるろう、できるはずやおと相手に思ったことが、できんかった時、相手を低く見積もってしまいがちです。できなくて相手の価値が変わるわけじゃないのに。ましてそれがその人を、受け入れなくてよい理由、愛さなくてよい理由にはならないのに、相手のせいにしてしまう。その自分の愛の低さ、私たちの心の貧しさも、神様は十字架で受け入れて、怒るのではなくて、赦して、恵みの御顔を私たちに向けてやまんのです。だから一緒に歩もうと、手を差し伸べてやまないから、私たちも自分の低さ貧しさを、その愛に受け入れられて、受け入れることができる。それが「自分を低くする」ことです。赦されていると感謝できるから、赦すことができる。赦そう、赦したいと思う。イエス様が受け入れてくれているから。自分だけ赦されたらえいという話じゃないから。イエス様が、この人も受け入れて一緒に歩もうと一緒に救って下さるから、天にまします我らの父よ、我らの罪を赦したまえと、神様のお気持ちのもと、恵まれ、救われて歩めるのです。

そこにはもう、十字架の神様のご支配が始まっています。イエス様が一緒に歩んで下さっています。その神様の祝福を一緒に求めるのです。