マタイによる福音書12章38-42節、ヨナ書2章「握り締めた手を開けば」

24/11/42主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書12章38-42節、ヨナ書2章

「握り締めた手を開けば」

「しるし」とは、本人であることが確かだと相手に認めさせる、本人確認のサインのことです。はい、あなたは確かに、この方、本人ですと。

譬えるなら私が認知障害を患い、何が?俺は正しいき!という確信のもと、他人の車に自分の車だと思って乗り込んで、自分は正しい運転をしゆうという確信のもと、大事故を起こし損害を与えて捕まった。でもそこに私の妻が迎えに来てくれ、損害はぜんぶ私が賠償したき、一緒に、すみませんでしたと謝って、家に一緒に帰ろうと言ってくれた。そこで私が言うのです。あなたが妻であるしるしを見せて欲しい。私の妻本人であることが確かだと認めさせる何かを与えてくれたら、信頼しようと。結婚式の写真を見せても、これが私たちだというしるしは?と。自分の譬えながら、ああ俺言いそうと思ってしまいましたが(笑)、この御言葉で、あなたが約束の救い主だというしるしを見せて欲しいと求める人々も、既にイエス様がなさった癒しの奇跡、旧約で約束されていたしるしは見ちゅうのです(11:4ff)。見たのに!あれは悪霊の頭によってやったことだと言って信用しない。じゃあ何に訴えたら、分かってくれるのか。わたしだと。わたしがあなたに約束したやいか、死が二人を別つ時まで、いつも一緒にいると。あの約束はわたしがしたのに、どうしたら、そのわたしが、ここに、あなたを救いに来たと分かってくれるのかと。

もう譬えとキリストの苦しみを一緒になって説き明かしておりますが、改めて妻が私を説得する譬えに戻ります。なら、何を言ったらよいのか。妻と私しか知らない痛み、深い悲しみを分かち合って命に刻まれた傷跡の記憶なら、何故それを知っちゅうが?と、妻の目を見るのじゃないか。あなたは私の傷も、闇さえも知っていると、私の真実を語る相手の言葉に向かって方向転換をするのではないか。

それがここに主が改めて与えられた「悔い改め」への招きです。ヨナの説教を聴いて、自分たちは神様の裁きから逃れられないと、ニネベの人々は畏れと共に神様に向き直り悔い改めたじゃないか。あなたも同じだと。2行目の直訳は「彼らはヨナの説教に向かって悔い改めた」。これは私の命の真実だ、神様ごめんなさいと、神様の御言葉に向き合って、命の方向転換をした。あなたも同じようにしなさいと招かれるのです。

自分は正しい、相手が間違っている、違うと言うなら証拠を見せろと、人は自分の正しさを握り締める。でも例えば人の目は、見たい、または、これは自分にとって危険だから見るべきだと、意識が向かん限り、脳が、全部の情報処理したら、しんどいと、他は雑音として処理する。だから、意味が分からんと、無視される。だけど、もし!自分が正しくないなら、自分は危険な状態にいると意識が向くなら、意味は分かって来るのです。

それが、ヨナと共に主が例に出された、南の国の女王の方向転換です。神様がソロモンに授けられた「知恵を聴きに」「出て来た」。説教の意味が分からんと教会も来とうなくなる。でもそこに神様の知恵があるならと、まるで地の果てから来る心持ちで教会に来るなら、そこに方向転換が起こる。神様の救いの知恵である十字架の救い主が、きっと分かるき、ここに!わたしのもとに来なさいと、キリストが招かれるのです。

自分が正しいと実感してやまない私たちを、それでも背負う知恵です。それでも共に生きて下さる神様の知恵、キリストがここに!おられる。

それが、二回イエス様が繰返し強調された招きの言葉です。直訳では「見よ!ヨナに優る者が、ここに!」「見よ!ソロモンに優る者が、ここに!」つまり「見なさい」ここに!わたしがあなたを背負い死にに来た。あなたを背負って復活もする。「一緒に立ち上がる!」その時、あなたはどこにいるつもりなのか。だからここに!わたしのもとに来なさいと、必死で招かれる。それがこの十字架の裁きと復活の救いの御言葉です。

しるしを「見せて」と言われた同じ言葉を敢えて用いられて、なら「見なさい」、もう見ているから!あなたがもう見ている神様の憐れみのしるしが、ここにおるき。三日三晩あなたの罪と死を負い、負い切って、完全な支払いを終えて賠償するわたしが主、あなたの神やきと。それが分からん人を、だからこそ背負って償う、十字架の神様の救いの知恵、神様の憐れみの知恵が示されるのです。

だからイエス様はホセア書の「わたしが求めるのは憐れみだ」という御言葉を繰返し人々に説教されて、何が神様の救いのしるしであるかを、ずっと説き明かしてこられました(9:13、12:7)。その神様の憐れみを、あなたはもう見ているから、他にしるしはない。だから、ここに来て、わたしを見なさいと主は言われます。御言葉に向き合っても、キリストに向き合っている実感がなくて、主よ憐れんで下さいと向き合う、神様が分からない人に、主は、心の貧しい者は幸いだから、わたしはその、あなたのために来た、あなたの神だからと、神様は、キリストによって私たちに向き合って下さっている。その赦しと憐れみの知恵に、救いの御言葉に向き合って、ここに!キリストの御前に!共に立つのです。