マタイによる福音書12章33-37節、エレミヤ書17章9-15節「悪言は予想以上の症状」

24/10/27主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書12章33-37節、エレミヤ書17章9-15節

「悪言は予想以上の症状」

このまま、もし変わらんまま行くと、自分は取返しのつかん目に遭うと知っていたら、どうするでしょうか。知らん、知るか、という言葉が、土佐弁やないと思いますけど、もし出て来るなら、それも主が言われた「つまらない言葉」になるのでしょう。

この御言葉は、すぐ前のところでファリサイ派の人々が聖霊様を冒涜するようなことを言ってしまった。何でそんな言葉が出てきたかを説明して、だから、悔い改めなさいと招いている救いの言葉です。

蝮の子と言われるのは、その言葉に毒があるからです。毒を吐くとか、毒づくという日本語もあります。悪い木になった言葉の実には毒がある。主が言われるのは、なった果実から、その木が知れるように、あなたは、自分がどんな存在なのかを自分の言葉から知って、知ったら、その自分の先にある裁きがどんな裁きになるかを、どうか知って欲しい。取返しがつかんなる前に、やがて自分が受ける罪の裁きから救われるために、だから代わりに死なれた神様を、信じて欲しくて言われるのです。

その動機は、憐れみ以外に何があるでしょうか。神様の十字架の木が結ぶ実は、良い実だから。善悪の善じゃなく、食べたら心が良く感じる、快く感じる救いの実を、どうか食べて欲しい。そしたら心で神様を知ることができるから。知らんと言う毒の果実など結ばないで、神様ご自身、良く感じられ喜ばれる恵みと憐れみの言葉に一緒に生きてほしいと願う動機以外で、何を十字架の主は、私たちに求められるでしょう。

言葉から自分を知って欲しいと言われて、悪い言葉が心から出る自分は悪いのかと、もし悪く感じても。その私たちの今の状態は、神様のみご存じです。その神様の前で、自分の言葉から自分を知るのです。もし悪が出ているなら、やがて来る裁きの日から救われてほしい。その時に、神様が代わりに死んでくれて本当に良かったと、その神様ご自身と共に、良かったと喜んで欲しいから、主は、これを言うたら悪く感じることは当然ご存じでありながら、神様の憐れみの言葉を語られるのです。

「つまらない言葉」を直訳で言うと「働きのない言葉」考える働きをしない、配慮しない、不注意な言葉です。確か中学の時、ケアレスミスが多いと叱られました。わかったつもりで考えないで、自動的に答えて間違うミスのことです。同じような言葉が出てないかと主は問われます。それを言ったら相手がどう思うかも、それを言った自分がどうなってしまうかも、考えてない。英語でI don’t careと言ったら、知るか!です。何故、知らないか。それがどんな結果となるか、どんな果実を結ぶことになるかを、考えないから。

どうして考えないか。主が言われるには、神様のご存在とお気持ちを自分の倉に大切に置いてないから、神様の思いを考えないのではないか。あなたは自分の倉に何を大事に置いているか。だから裁きの日を頭では知っていても、ケアしない、知らないのではないかと、ケアされます。

だから知らせられるのです。人は自分の心から出てきた全ての言葉について何故そんなことを言ったか、裁きの日、神様に責任を問われる。直訳は「言葉で返答することになる」から。

アダムがそうだったように。神様が今も見ておられると考えてなくて、悪を行って、神様から隠れるなど、できるはずがないのに隠れて。そのアダムに主は「あなたはどこにいるのか」と問われました。何故そんなことしたかアダムの口から答えてほしくて、アダムから聴きたい言葉があって、正解とか形だけではない、真実の言葉を我が子に求めたように、私たちは十字架の神様から、真実の言葉を、今も求められています。

その日、知るかと言える人は一人もいない。真実の返答をすることになる。その言葉を今!求められるのです。もし知らないで行った悪なら、知りませんでした、赦して下さいと。もし知っていたのに行った悪なら、知っていたのに、ごめんなさい、主よ、と。

この御言葉とほぼ同じことが7章でも言われます。そこでも主は最後の審判の日を、同じように知らせられます。本当は私たち知っているのに、悪い実を結ぶ時には思い出されない神様の、真実がそこにあるからです。その神様に向き合うことでのみ、人は自分が誰であるかを知るからです。そして、だから!その私たちを背負って代わりに裁かれに来て下さった神様を知るから、知って信じて救われて欲しいから、言われるのです。

そしたら裁きの日に、あなたのことは知らないと言われないで済む。もし、知るかという態度でいたら、あなたも、その日、あなたのことは知らないと言われてしまうが、それでいいか、それでも知らんと言うか、そんなはずはないだろうと、真実に命をかけて自分を捨てて!私たちの裁きを負われる十字架の御子が、あなたに真実を言う、知って欲しい、一緒に父のもとに帰ろうと説得される。その神様の前に、信仰の告白をするのです。あなたが救って下さるから、私は救われますと。キリストの恵みを信じて結ぶ実を、主は、良かったと祝福される神様だからです。