24/10/20主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書12章22-32節、イザヤ書49章22-25節
「救いにケチつけたツケ」
神様にどんな態度で向き合っているでしょうか。あるいは私たちの罪を神様が野放しにすることはないと思っていて、何かしらの裁きを神様はなさるはずだ、それが神様だと思っていたら、自分がしたこと、またこれからしようと思う行いに対して、でもこれは罪だと一瞬でも意識し、神様を意識するのではないか。そこで目を逸らすように裁きを考えないことにすることもあるかもしれませんし、ここでファリサイ派の人々が、自分は間違ってないという態度を押し通そうとしたのと同じ態度になることもあるのかもしれません。
でも、ならばこそイエス様は、この御言葉で思い起こさせるのです。「この世でも後の世でも」つまり生きている間にも、神様は罪を野放しにされることはないし、もし生きている間に裁かれなくても、必ず死後、裁きを受ける。ガラテヤ書の御言葉で言えば「思い違いをしてはいけません。神は人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(6:7)。
この御言葉を私は自分の態度の漬物石のように心に載せています。でないと浮ついた態度になりやすいのです。あるいは本当を言えば載せていても!でもと自分に言い訳をして、神様を侮る態度になっている時が、きっとあることを、主はご存じであると知っています。知っちょったら、言い訳らあするなやと思う人もおられるでしょうか。それでも言い訳をしてしまうどうしようもない人間の罪深さ愚かさ弱さを知っている方も、きっとおられるのではないでしょうか。
神様に対する態度、生きる態度を健やかにするために、この御言葉はイエス様の十字架の重しを与えてくれます。改めて十字架の重さを神様の裁きの重さとして、そこで裁かれる自分の罪の重さとして感じて欲しい。その重さを担いに来られた神様「人の子」を愛するために。
もし聖霊様への冒涜だっけが赦されなくて、御子への冒涜は赦されるから別にかまんと、もし思うなら、イエス様に対する態度が、ひょっと神様に向き合う態度になってないからかもしれません。あるいは父なる神様も、赦してくれると言うより裁かんろうと思う態度、重みがなくて軽い、襟を正さない態度で、もし父を思うなら、聖霊様だけ赦されない罪という特別枠があるのだと誤解しやすいと思うのです。
聖霊様だけ気をつけて冒涜せんように、ということではありません。出エジプトの時、奴隷の家エジプトから導き出されて神様を知った民が、なのに言い逃れできん罪を犯してモーセが執り成した時、主はこう言われました「わたしに罪を犯した者は誰でも、わたしの書から消し去る」(出エジプト32:33)。それが命の主を侮る罪の重さであり、こう言って良ければ、基本永遠の極刑なのが聖書の証しする神様を侮る当然です。
なのに人間は自分が当然だと思っていることが当然だと信じて、神様にも自分の当然を当てはめて、神様が間違っている、酷い、厳し過ぎる、信じないと、どうしても自分を守る態度になる。だから自分の確信などでは、自分を守れない逃れられない自分の死後の裁きを思い出させて、何とか侮る態度を捨てさせよう、そしたらきっとわかってくれると必死で説得をしているのが、このイエス様の御言葉なのです。
で、結局、赦されるが?という態度にならないよう、「人の子」の説得の態度に、十字架に向き合われての態度に集中したいのです。25節で「どんな国でも」と訳されたのは、この御言葉の中心29節で「神の国」つまり神様の「ご支配」と同じ、サタンが人間を神様から引き離し支配する仕方がどんな仕方か本気で考えさせる言葉です。内輪内輪と繰返す言葉の直訳は「分裂」です。日本の国政もそうですが、分裂する支配は侮られます。サタンを侮る態度でいるから逆に支配され、神様のご支配が上20節の憐れみの正義によって、もう「来ている」のに、わからない。むしろその憐れみが嫌で高ぶって、自分は自分の力で自分の正しさでと、神様を侮って裁くファリサイ派の人々をも、なのにイエス様は、赦すき、赦されるき、そのためにわたしは、どんな罪であろうと、神様を侮って、その救いにケチつける永遠の重い負債も、わたしが神の命で支払い切ると、私たちの罪の身代わりとなるために神様が!「人の子」となられて来られた!そのイエス様が、背負われた全ての人を説得されるのです。
そのイエス様と「一緒に集めない者は散らしている」、つまり他に救いがあると、ファリサイ派のように自分の正しさを主張したり、そこまで救いにこだわらなくてもと、イエス様の態度に言い逆らう態度で生きていることもあるかもしれない。でもイエス様は、そこにわたしは来たき、赦すき、悔い改めて、ついて来なさい、わたしに従いなさい、あなたをわたしと一つに結び、あなたを通しても神様の救いのご支配を行われる聖霊様を侮らないで「一緒に」皆を神様のご支配に、永遠に集めようと説得される。それが神様の態度なのです。その神様の愛の力に「奪われ」一緒に救われたら良い。神様のご支配が、もうここに来ているからです。