24/10/6主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書12章15-21節、イザヤ書42章1-4節
「傷ついても神様の宝物」
異邦人。つまり外国人、外の人です。誰から見た、外の人か。19節で言えば「大通り」の大きな道を自分の仲間と歩きゆうと、道から外れた外の方に小さな道が見える。でも例えば自分の子供に、あこへ行ったらいかんと言う細い小さい道。そこに人がおらんのじゃない。いる。神様が死なれるほど同じ大切な人なのに、自分らとは違うと思われる人々が。
その人々にイエス様は、神様の憐れみのご支配が来たから、わたしのもとに来なさいと「正義を知らせ」られた。それが既に先の4章でイザヤの預言が実現したと、こう言われたのです「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4:15)。
イエス様の時代でもガリラヤはイスラエルの中心エルサレムからは外。やっと高知にドンキ来るみたいな(笑)、外から御国は始まる。と同時に、主はこうも言われました「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。命に通じる道は細く見いだす者が少ない」から、偽りの救い、偽預言者の教えに、注意を払いなさいと(7:13ff)。大通りで声がするから。律法の決まりをファリサイ派みたいに守ったら天国に入れるがぞ。守らな入れんがぞと。律法主義者の争う声がするからです。
それで主は、下の段30節で「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」のだと、当時イスラエルの宗教的エリートと自負していたファリサイ派の人々に問われるのです。もしあなたが「わたしと共に」人を神様の救いのご支配に集めているのでないなら、その神様の救いから、悪霊だけでなく、あなたも人を外に掃き散らしているのではないか。神様に敵対しているのではないかと。自分たちはイスラエルの中心にいる、神に選ばれた選民なのだと自負していた人々にです。譬えるならパワハラで人が死に辞職を求められても、自分は選ばれたのだと、中心を譲らない人。でもイエス様も!譲らない。何故なら律法は神様ではなく、その律法が預言する憐れみ深い神様が!救いの中心だから。人々の救いを守るため、柔和に忍耐強く譲らない。
その中心を「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」と父なる神様が証言されます。主が洗礼を受けられた時に聴こえた父の声とも重なる、父の証言です(3:17)。
「僕」と訳されたのは、もとのイザヤ書が、やがて父から遣わされる救い主は忠実に父の救いのご計画に従われる僕である、身代わりの死にさえ、はいと従われる僕であられることを強調したからです。が、元々この言葉は「親の躾の下にある子供」を指す言葉ですから、父なる神様と父と子の関係にある子が、父子であればこそ御子が父にお従いされる僕として選ばれ、忠実に誠実に御子が罪人の犠牲になられ罪人が償われ赦される救いの「正義」が「実現する」と言うのです。このイエス様が私たちの救いのため選ばれた方だ。父に喜ばれ選ばれて、見よ!と言われる。ならそれは、どんな救いか。それが20節「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」御子の救いです。
傷ついた葦とは、言わば曲がって使いもんにならんなった定規です。正しく真っ直ぐ線が引けん。正しい長さの測定ができん。ファリサイ派の目から見たら、律法を守れず正しく生きてない、外にハミ出した人々、選ばれてない、あるいは選びから出てしまった罪人たちは、なら折って捨ててかまん、神もそうするろうと。でもイエス様は、捨てん!代わりにわたしが棄てられるからと十字架で背負って償われ、あなたはわたしの宝だ、神様の宝の民、家族だ、どういて捨てられる!と愛し抜かれる。それが神様の選び、我らの父の心に適ったご支配だからです。
また、くすぶる灯心とは、皆さん、上の蛍光灯がチカチカしだいたら、どうされますか。おわかりだと思います。でも神様は、あなたは替えがきかん、掛け替えないわたしの愛する子やき、あなたを替えるらあせん。あなたは、あなたしかおらんがやき!だから!その大切な命を、父なる神様の愛の光に照らされて、赦され愛され、だからあなたも赦し愛する、世の光として(5:14)、どうか大切に生きて欲しい!わたしがあなたの光だからと、神様の憐れみの正義の勝利へと最後まで導き通されるのです。
だから自分が中心とか基準ではない小さく貧しい異邦人は、イエス様の御名に望みをかけて!希望を持って良い。この十字架の神様の命がけの愛に信頼する、信仰と希望と愛は最後まで残るから!「その中で最も大いなるものは愛である」と、御言葉が証言し、宣言する通りだから(コリント一13:13)。希望を持って、イエス様の愛の光に生きればよい。
どんなに貧しい灯でも!この人にもイエス様の救いの中に来てもらいたいと、主の愛を世の光として灯せばよい。愛したいのに愛せんと嘆き、チカチカしても、イエス様は捨てんから!その光でよい、わたしを信頼して愛すればよい、わたしが輝くき、この愛を用いて勝利に導くきと、十字架で自分を捨てられた勝利者イエス様が必ず共にいて下さるから!はいと、主を信頼してお従いすればよい。そこに御国は来るからです。