マタイによる福音書12章9-14節、ヨナ書4章9-11節「本当に愛がわからんが」

24/9/29主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書12章9-14節、ヨナ書4章9-11節

「本当に愛がわからんが」

説教題を作る時の、決まりを私は持っています。10文字にする。別に破ったち罪ではないですが(笑)、それ以上長いと看板に収まらいで苦労をかけるので割と厳格に守ります。が、それで今日の題みたいに、これ、疑問文?それとも、わからんがですと言いゆうのか、見る人をモヤモヤさせゆうかもしれません。疑問文で読むと、何か責められゆうような、発音的にも、本当にわからんが?と吊るし上げ、締め上げているような、嫌な気分が伴う。でも、わからんがですなら、ごめんなさいと身を低く謙遜な気持ちで、あるいは十字架でイエス様が身代わりに釘打たれて、彼らを赦して下さい、何をしゆうがかわからんがです、愛がわからんがですと、自分を捨てて赦しを執り成して下さった愛の言葉にもなる。

実際ファリサイ派の人々は、ここから十字架への道を計画するのです。でもその罪の責任さえ神様は引き受けられて、そのあなたがたをも償い救うから、わたしを信頼しなさいと招かれる。それがこの説得でもある。わかってもらいたいのです。いや本当はわかっているはずじゃないかと、これまでも主は説得を続けて来られた。この羊の譬えによる説得も主の意図はわかるのじゃないかと思います。そうやお?という説得なのです。イエス様は同じ形の説得を既に6章で、空の鳥を見なさい、種蒔きも刈り入れもせんけど、あなたがたの父は鳥を養って下さる。ましてあなたがたはもっと価値のある、父の大切な子らじゃないか、そうじゃないかと説得された。更に7章で、あなたがたは天の父の愛がわからん自分自分の悪い者であっても、自分の子には善いものをあげるろう、ましてあなたがたの天の父がどういて良いものをくれんろう?それが律法やき。自分の子には、という限定付きであっても、親子関係の、関係で既に知っている愛を、つまり人にしてもろうたら嬉しいと知っている、その良さを、人にしなさい。それが関係の間柄を満たす愛だから。天の父が子供たちに求める愛と信頼の関係だから。わかるだろう?と説得されてきた。

その同じ愛の論理で12節「だから安息日に良い(直訳)ことを行うのは律法に適っている」と神様の愛の筋道を知って欲しいと求められます。

ただ私たちも、わかるけど、と自分を守りたくなる感情を持ちやすいのです。頭では良いことだと思っても、心で良く感じなくて、何か悪い不快な感じがするからと判断し、否定したくなる。自分を守りたくなる。その場にいること自体がファリサイ派の人々は嫌で出て行ってしまって、相手が消えて消滅してくれたら、嫌な状況から自分が救われると。自分を愛する論理、自分が感じる良さで判断して、愛がわからんなるのです。

この自己愛へのひっくり返りは、実は既に創世記で、安息日の良さがひっくり返された話から教えられています。六日の創造の後「神はお造りになったすべてをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。良い。喜ばしい、心に良い、快いという、神様の祝福のご支配の鍵言葉です。その喜ばしい心良さを、人も味わったのです。何が良いかは知っていた。喜ばしい神様との良い関係から知っていたのに!善悪の知識の木の実と訳されますが、直訳は良し悪しの知識。神様が極めて良かったと、その良さを分かち合う安息日を聖別された。その神様と共に歩む関係の良さを知っておった時には、神様の御言葉を信頼して、食べたら死ぬき嫌と感じていたのに。でも、そそのかされて同じ木の実を見た時、その木は食べるのに「良い」と見た、それで食べたと教えます。食べる前から、自分に良いと感じるものが良いと、良いが自分中心にひっくり返った。まるで地球の周りを宇宙が動いているように、世界がひっくり返って、自分が良いと感じるか嫌だ不快だと感じるかで生きる世界では、愛が、自分中心にひっくり返って、どうにもならんのです。人を愛したいのに、すっと自分中心にひっくり返って怒らせたり、自分が先に嫌な気持ちになって、もうえいと怒ったり。愛したいのに、愛がわからいで、それは相手が悪いがやと、アダムが、あなたが私に与えたこの女がと人のせい、神様のせいにして、自分は悪くない、相手が悪い、だってあなたに向き合うと嫌な感じがすると全部が自分中心で、その神様から死ぬほど愛されていることさえ、まるで自分が責められているように感じ、そこから離れたほうが良くなると感じて。その私たちの、愛したいのに口だけになる愛を、今日の御言葉の前、7節にイエス様が引用されたホセア書では、「わたしはあなたをどうしたらよいのか」(6:4)と主が嘆き言われるのです「わたしが求めるのは憐れみと愛であって、いけにえの決まりとか宗教じゃない」、赦すから、償うから、どうかひっくり返ったその道から、わたしのもとに、あなたの世界をひっくり返してでも帰って来てほしい。わたしが神である自分をひっくり返して、あなたの罪の代わりに死んで償うから。わたしと共に、人がまた再び健やかに歩めるように、元通りに回復させるからと、神様が代わりに死の滅びの穴に飛び込みに来て下さった。手が元通り健やかに回復させられたこの人のように、神様の愛が人を回復させるから、その良さを、はいと信頼して共に歩むのです。