マタイによる福音書12章1-8節、ホセア書6章4-6節「一体誰のため守るのか」

24/9/22主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書12章1-8節、ホセア書6章4-6節

「一体誰のため守るのか」

後の十戒で「あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない」と唱和します。わたし以外にあなたを支配させる絶対者を持つな、とも言えます。絶対。必ず勝ち、常に一番上なのが絶対です。トランプなら、ジョーカーでしょうか。そうやって安息日のカードを、罪だ!と出す。そのカードに対してイエス様は、そうやって人を勝手に裁く罪さえも、代わりに引き受けて償う、絶対に死なれるため人となられた憐れみ深い神様人の子が、そのカードの上に立つ、安息日の主だから、わたしのもとに来なさいと、まことの絶対、まことのご支配を知らされるのです。

イエス様は、あなたの主は誰か?と問われます。安息日や他の色んな強いカードを言わば教会で集めて自分の手持ちカードにすると強くなるように思っても「あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない」。

イエス様が安息日の主、安息日のルールを定められたお方です。何故、定められたのか。安息日の主であられる神様を知ることを生活の一番に週間/習慣づけることで、主の憐れみのご支配に実際に生きられるから。人間関係も同様。誰かと共に生きるためには、その人を知る必要がある。知るためには、その人と親密な時間を過ごせる時と場所と、心を特別に守らな無理です。それが「安息日を心に留め、聖別する」、神様を親密に知って共に生きる関係を築くために!現実的に必要な主のご慮です。

そのご支の中で、罪の赦しを告げる、いけにえが旧約では与えられ、ありがとうございますと、神様との関係も人との関係も、柔和で謙遜に保てるよう配慮されている。そのいけにえが人の子であるイエス様です。そのイエス様を皆で、ありがとうございますと礼拝できる。主の祈りは、それを神の家族、皆で求められるよう祈りにした、ご支配の求めです。そこに主の憐れみを信頼する関係の態度以外、何が求められているか。

なのにその安息日に込められた憐れみのご支配を、自分で自分を守る絶対支配のカードに捻じ曲げて利用したから、主は説得をなさるのです。

カードを出した人は、弟子たちが何故?麦を摘んだのかを、少しでも考えたでしょうか。その目に映る、麦を摘む行動が、どのように意識に上がって来たのか。悪い、不快だ、という感覚と一緒にか。それとも、お腹がすいたがやという、自分も空腹の時に知っている感覚に導かれて、共感して、だからかと、少しでも考えたか。

イエス様が先ずダビデの例を出して問われたのは、お腹がすいた時に、彼がどう扱われたか、という参考例として考えてもらうためです。もし、いや俺は安息日の話をしゆうがって怒るなら尚のこと、どうしてお腹がすいて可哀そうにと先ず意識に上がって来んがやろうと問われるのではないか。決まりが先なのか。憐れみが先か。心がどちらを優先するのか。

主は、空腹の話の後で、安息日に働いてはならないという話をされるのです。優先順位はどちらか。もし心が憐れみに支配されてないなら、何があなたの心を支配してしまっているのか。何に支配させてしまっているのか。天の国、神様の具体的なご支配の一つが、この優先順位です。

無論、決まりを無視するのではありません。しかし安息日に働いてはならないのは、決まりだからではないことを!決まりは絶対でも支配者でもないと知らせるため、主はまたも、直訳は「安息日を踏み越えても無実である」例を挙げられて、では何故、神殿での働きは例外なのかと考えさせるのです。神殿が、決まりを踏み越えるほど決まりを支配する、決まりの上に立つ、絶対的な立場にあるからか?それが神殿か?あなたが絶対と思っている律法さえ支配するのが神殿なのか?いや、神殿より上に立つ唯一聖なる存在は、知っちゅうろう?一番上ながは、何よりも優先されないかん、すべてをご支配される絶対者がおられるがは本当はあなたも知っちゅうじゃないかと、敢えて答えを言わないことで、心が自らその絶対のご支配を求め探して、ひざまずけるよう導かれるのです。

私の主は誰か。どんな絶対者なのか。私も、教会の仕事があるからとカードを出して、いま憐れみが必要な人に向き合うことを避けるなら、イエス様を避けているのです。説教を主にしたり仕事を主にしたりして、私の魂に安息を与えられるイエス様を避けて重荷を負って疲れて、何をしているのかと虚しくなる。だからイエス様に向き合って、その憐れみのご支配に、はいと生きる時、それが魂に安息を与えるのです。

後で主が「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(25:45)と言われるのは、だからこそ、今わたしと共に歩もう!との招きの言葉以外の何ものでもありません。

その小さい者たちのために死んで下さった、すべての罪を背負い償ってくださった憐れみ深い主が!わたしが主、あなたの神だ、あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない、他あの何にも支配されるな、わたしが救うと、呼んで下さるから、はい、あなたが私たちの主ですと礼拝するのです。その憐れみの律法に生きる者、主の愛に愛され赦され、赦し愛する者として生きる。そこに主の安息のご支配があるからです。