マタイによる福音書11章28-30節、イザヤ書46章1-4節「柔和で謙遜な主の救い」

24/9/15長寿祝福礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書11章28-30節、イザヤ書46章1-4節

「柔和で謙遜な主の救い」

十字架の柔和で謙遜な神様が招かれます「来なさい、わたしのもとに。だれでも。」それがもとの言葉の順番です。だれでも。直訳は「すべて」。つまり、あんた元気やか、ブー、疲れた人限定(笑)ではない。むしろ、あなたがた、疲れて重荷を負う者たちよと、皆が呼ばれているのです。

前任者の鈴木先生の娘さんから聴いた話で、夜中にテレビの音がするので見たら、先生が座ったままガー寝ていた。で、テレビを消したら、観てるのにと起きてくる(笑)。また夜中に部屋の電気がついているので見たら、先生が寝ながら本を読んでいたらしく、両手を挙げているけど、本が顔に落ちたまま寝ている。で、電気を消したら、読んでるのに(笑)。いや読めんろと笑ってました。でも、そうやって自分は疲れてないから、自分で頑張れるからと否定したくなる、私たちもよく分かる、見えない支配のくびきや重荷を、誰もが負ってはいないでしょうか。

くびきとは、家畜の首に木をつけて畑を耕したりさせる道具ですが、例えば戦争で国民が負わせられる強制支配を、支配のくびきとも呼ぶ。クリスマスに読まれる「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた」というイザヤ書にも「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたは…折って下さった」という御言葉があります(9:3)。戦勝国に支配され負わされる重荷を、くびきと呼ぶ。あるいは戦争に勝つために国民が負わされる重労働、重荷、欲しがりません勝つまでは。長寿祝福を受ける80歳に来年以降なられる方は、直接、戦争を知らない世代です。そのほうが良いに決まっているのです。でもその子供の世代、私の世代は受験戦争を知っています。頑張って人に勝たないかんと学ばされた。定員割れしちゅう今でも、人生は勝たないかんと学ばされ、その教えに支配される重荷、くびきを負わされてないか。本当に勝たないかんのか。人間関係も相手に負けたら自分の思い通りにならない。支配のくびきを負うことになる、それを重荷と感じないか。だから重荷を負わないよう勝とうとするのではないか。自分のやり方を相手に負わせた方が勝ち。なら賢いほうが勝つ。あるいは力ずくの人が勝つ。でもそれを神様にも当てはめて、神様もそう考えているだろうと。これを頑張れば祝福され、これを行うから天国に入る。やらないかんことを頑張って勝ち取らなと思う。その自分のやり方や求めを、もし信仰や祈りだと思っていたら。

その支配を、主は右頁上12節でこう言われたのです「天の国(神様のご支配)は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれ(神様のご支配)を奪い取ろうとしている」。もし!お前はやらないかんことを頑張ったな救いを勝ち取ったなと、受験で勝ち抜くように神が天国に入れたり祝福してくれるという宗教や、お一人様の信仰のくびきを負っているのなら。そんな支配のくびきは降ろして良い。その重労働は、もう降ろしなさい。そのあなたを、わたしが休ませるから、わたしのもとに来なさいと主は言われるのです。何故なら、その天国や祝福は、十字架ですべての罪を負って償いに来られた神様のご支配と、何の関係もないからです。神様は、むしろそんな私たち「すべて」を救うために、しかも今ここで神様と一緒に生きて歩む救いの関係に、はいと生きるため、わたしのくびきを負いなさい、わたしと一つに結ばれて一緒に生きようと御子を与えて下さった。それが我らの父と呼んであがめる、私たちを幼子として愛し受け入れて下さる神様のご支配父と子の関係による救いだからです。

そうでしょう。幼子が誰かに勝たないと愛さないでしょうか。教えた通りにできんから子じゃないと棄てるのか。戦争を起こす人間はそうであっても、その私たちの罪を償うために御子を死なせて下さった天の父が求められる私たちとの関係、つまり父のご支配は決してそうではない。あなたを十字架の償いによって赦すと求められる。それほどまで父と子の関係の回復、関係の救いを、だってあなたは我が子だろう、わたしを呼んで救われよと求められる父のご支配が、私たちの救いだからです。

その父の求めがなるために、その義しさが、私たちが赦され救われる御心が全うされるために、自分が犠牲になることを、三位一体の御子が、はい、それがあなたのご支配ですと受け入れられ、十字架で苦しみ犠牲の償いが果たされた。イエス様が「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言われたのは、それを受け入れたわたしが、あなたを受け入れて一緒に歩むのだから、そのわたしに学びなさいと言われるのです。勝たなくていい。自分の思いがならなくても、あなたが決して失うことのできない幸せを、父があなたに求められ、もう既に用意されているから、わたしと一緒に生きて捜し見つける幸せを、共に息をしながら歩んで行こうと、私たちと共に生きられる神様、御子イエス様が招かれるのです。力ずくで勝ち取りたい幸せ、自分が幸せならと思う賢い幸せの支配のくびきに振り回される幼子たちを、ならばこそ、おんぶ紐のようにご自分に結び負われた柔和で謙遜な救い主が、わたしのもとに来なさいと求められる。その愛のくびきを負う幼子の幸いが、長寿祝福の主の幸いであるのです。