マタイによる福音書11章25-27節、詩編19篇「人は一人で救われない」

24/9/8主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書11章25-27節、詩編19篇

「人は一人で救われない」

天の父の他に御子を知る者はいないと、その御子ご自身が言われます。思春期の子が誰も俺を分かってくれない、親父以外にと言ったら、その親父すげえなと思いますが(笑)、私たち、イエス様のことを、分かっているんでしょうか。先に告白しました「生きている者と死んでいる者とを」終わりの日に裁かれる御子を、だからこそ全ての罪を背負って人となられた御子のお気持ちを本気で分かっていたら、今とは違う生き方で生きているのではないかとも思うのです。

だからこそ、その私たちを償うため死にに来られた御子を、イエス様、でもお救い下さい、分からないけどお救い下さいと、まるで物わかりの悪い幼子のように、あるいは何も分かってないけど、自分は自分で自分を救えないとは分かっていて、救われたい、生きたい、助けて欲しいと、近くにいる人に向かって泣く幼子のようにイエス様のもとに行く人は、そのために御子を与えられた父を、御子によって知っているのだと主は約束されます。天にまします我らの父よと、あなたはわたしと一緒に我らの父の御名を呼んで、そのご支配を求めているではないかと、心の貧しい者たちに、父の憐れみのご支配を約束されるのです(5:3)。

幼子は、ご存じの通り、だから譬えられるのですけど、親に頼らな、一人では生きていけない。それが幼子です。では、大人は一人で生きていけるのか。そうなれ、と育てられもするんじゃないか。人に頼るな。むしろ人から頼られる人になれと。矛盾しているんですけど(笑)。結果、真面目で神経の敏感な人が完全主義になって、できない自分も人も裁くようになったりすると、恐いと言うか、人から頼られにくいと言うよりは、近寄りがたくなることが、ないか。私は自分のことを言っているのですけど、ん~けんど私も少し思い当たるという人は、真面目な日本の教会には少なくないんじゃないかと思います。

逆に神経の大らかな人が、じゃあ完全主義には陥らなくて、できない人も、あるいは自分も、えいえい、人間だもの、と言って裁かないけど、では人から頼られるかは、まあ別の話でしょうか。特に、仕事を完全にこなす人が求められる社会では、できる人を求めて重宝し、一種の尊敬、社会的地位や報酬が与えられるので、できる人になりたいと求めるし、親も子に、そう求めて、一人で生きていける人になりなさいと教えがちなのかもしれません。この世で良く生きていくことができるように。

その社会では、幼子のように人に頼る人は未熟だ、だから早く誰にも頼らなくてよい、あるいは親が楽になるよう(笑)早く成長しなさい、それが社会で生きるための知恵、賢さだからと教えるのは、そんな社会を作った人間支配のもとで生きるためなら、たぶん間違いではない。

でもそれは天と地を創られ、その中に住む「すべて」を御子によってご支配なさることを求められた、父が喜び求められる生き方ではない。父が求められるのは、私たちが「すべて」において父に頼る父子の信頼関係です。何よりも先ず父の憐れみのご支配を求めなさい(6:33)、父に頼って生きる信頼関係の中に、あなたの命も救いもあると、御子ご自身、死ぬほど父に頼られて、十字架で死なれるのです。それによって私たちが赦されて救われることが、父の望みだと、父を信頼しておられたからです。だからマタイは十字架の場面で、知恵ある賢い者たちがイエス様に言った言葉を、こう告げます。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じよう。神に頼ったんだろう。今すぐ救ってもらえ。もし神が望むなら。だって『わたしは神の子だ』と言ったのだから」(27:43)。

だからイエス様は十字架から救われませんでした。御子の死によって、私たちの罪が償われて救われることをこそ、父が、我らの父として望まれたからです。その父の御心は死ぬほど義しいです!と、御子ご自身、十字架を前にして本当に幼子のように泣きながらでも、父よ、あなたの御心がなりますように!と、我らの父の憐れみと救いの御心に頼られたから、私たちが代わりに救われるのです。そのイエス様が分からなくて、それでも神様お救い下さいと求める幼子の救いのために、分からなくていいから、一緒に求めよう、一緒に祈ろう、あなたのために、わたしをこの世界に与えられた天地の主なる神様を、わたしと一緒にこう呼ぼう。天にまします我らの父よ!御名があがめられますように!御国が、父の憐れみのご支配が来ますように。そうやって、わたしと一緒に父の名を呼ぶ幼子たちの救いが父の望みだから、イエス様は、そうです、父よ、これがあなたの御心に適うことだったのですと、十字架の救いに向けて、すべての人を招かれるのです。それがインマヌエル、私たちと共にいてくださる神様の望まれる御心だから。だから私たちは、この神様を信頼して、父の子とされる洗礼を、父・子・聖霊の名によって受けて生きる。

すべてが、父から御子イエス様に任されたから。そのすべてを御子が十字架で引き受けられ、償い清めて下さったから、すべてを父に頼ればよい。そこに主の幼子のような賛美も、私たちの口に授けられるのです。