マタイによる福音書11章20-24節、エゼキエル書28章1-5節「先が崖なら方向転換を」

24/8/25主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書11章20-24節、エゼキエル書28章1-5節

「先が崖なら方向転換を」

もし私が、ああ不幸なるかな○○市と、町を叱り始めたら、皆さん、どう思われるでしょうか。ついにこの暑さで(笑)。それは冗談として、この御言葉は、主が上の段で、洗礼者ヨハネは最後の旧約の預言者として人々に、神様と共に生きるよう悔い改めを預言したのだと言われた。その続きです。旧約の預言者は時に大都市や国に向かって預言をした。その預言の仕方で、あ、イエス様は、この人々がやがて裁きを受けると預言しているんだと、当時、聴いて怖くなった人々はおったと思います。でもそうやって怖くなる幼子のような人は幸いだと、この後25節に続くので、妙に大人ぶって、私は怖くないとかならんのが賢いのです。

私たちは神様がどんな方かを、本当に知っているのか。死後の裁きを、罪の裁きを、いやその裁きをなさる神様を知っているのか。知ったなら、どうしなさいと、その裁きを引き受けて死にに来られた「生きている者と死んでいる者とを裁かれます」(使徒信条)イエス様が、ここで叫んでおられるのか。説教題を「先が崖なら方向転換を」とした所以です。

「悔い改める」とは、命の向きを神様に方向転換するという意味です。旧約聖書が、救い主が来られたら、これこれの奇跡をなさると預言した神様の憐れみのご支配をイエス様が行われて、方向転換して神様と共に生きなさい、神様のご支配が来た、ほら、ここに!とお示しになられた。でも、それを見た人々が、うわ~と思う言わば宗教体験をしただけで、方向転換はしなかった。ということは、今まで通りなのです。キリストの憐れみのご支配を見たのに、わたしのもとに来なさいと招かれたのに、行かなかった。つまり行かなくて良いと、御言葉!より自分を信じて、キリストから距離を置く。それは不幸だ。だってそれがあなたの将来にどのような報いを与えるか。その報いは相当に重い。ソドムの地に硫黄の火が降った、あなたがたも知っているだろう、あの報いのほうが軽いほどの不幸が降るのを、わたしは見過ごせないからと必死で人々に訴えかけられる裁き主のお気持ちを、私たちはどのように思うのか。距離を置くのか。それとも、どんなお気持ちだったかと方向転換するのか。

もし、けんど私の罪はそんなに重うないと思うなら、そう思う態度、生きる姿勢に方向転換が必要だと迫るのが今日の御言葉なのです。

「裁きの日には」と主は繰返されます。宿題が終わってない子供に、始業式の日に泣いている自分を想像させるのにも似ているでしょうか。つまり、その日が来る前に、必要を満たして欲しいのです。

イエス様が呼びかけられるのは、私たちの側に呼びかけられる必要があるからです。もし私たちが神様の呼びかけに、はいと応えるとしたら、その必要を、自分自身の命に関わる必要として知るからでしょう。

そこの坂道を駆け下りようとする子供に、十年ぐらい前の我が子たちですが、いや私たちも前は、あるいは今もそうなのではなないか。先に何があるか見えんのに、何もないと信じて、あるいはボール遊びに支配されボールがボールがと支配されて駆け下りる者に、止まりなさい!と呼びかける。自己責任で済ませられるはずがない。必死です。何故か。止まらせる必要があるから。その必要を知らないで駆け下りているから。頭では、それで取り返しのつかんことに、他の人が!なったという知識があっても。自分はならない。自分は倒れも大けがもせず角の向こうに猛スピードの車もいないし電車も来てないと。でも本当はそれ全部何で自分は走ったかの後からの予測なのです。その予測は「裁きの日」にも通用するのか。今までと同じパターンの延長線上にある、たぶんそうで済む予測で「裁きの日」を予測してないか。車は向こうから来ていないという予測さえ、本当は極めて危険で取り返しのつかない、単に今までそうじゃなかっただけの自分の予測に過ぎなかったのではなかったか。

その私たちの、自分が未だ見ていない行く先で、けれど死ぬほど知る必要がある命の必要を、知っておられる神様が、だから人生の終わりの崖の手前で手を拡げられたのです。この先には罪の裁きがあるとお示しになられた十字架の、止まれ!という人生の標識を立てられたのです。その十字架の裁き主の言葉が、止まれと呼びかけているから、その神様の十字架が立つ教会は、この世界の崖の手前で全ての人に呼びかけるのです。この崖の底に、死とも滅びとも呼ばれる陰府がある。それ自体、私たちが犯した罪の報いの陰府。同時に終わりの日の裁きを待つ陰府であるけど、その陰府に向かって轟々と流れ落ちていく全ての罪と罪人の一切を引き受けられた、人となられた神様、イエス様が十字架で裁かれ、死なれ、陰府へと真っ逆さまに降り落ちられたその一番底辺で、わたしがあなたたちを受け止める。抱え救い挙げ、復活の命に救い入れるから、わたしのもとに来なさい。わたしを信頼して、わたしへと命を方向転換しなさいと招かれる。だからこの十字架の主の御前で、その呼びかけに従うのです。やがて主が、起きなさい我が子よと呼ばれる御声に、はいと起き上がる日がくるから。その日へと、幸いな方向転換をするのです。